風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

創造主の御思いの中に生き、動き、存在して

 大地を造り、
その上に人間を創造したのは
わたしである。
イザヤ書45:12

 神は
私たち一人一人から
遠く離れてはおられません。
使徒17:27

 Ⅰコリント12:12~18
 ヨハネ5:1~9a(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/13;金)

 大地も、人も、私が造ったと主張される方がおられるのだそうです。

この方は、この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった方。
ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、
地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と
その住まいの境界とをお定めになった方。

 私たちの近くにおられ、
もし、私たちが探り求めることでもあれば、
見いだすこともできる方なのだそうです。

 私たちは、神の御思いによって造られ、
御思いの中に生き、動き、存在しているのだそうですから(使徒17:24、26~28)。

 ちょうど、からだが、その人の思うとおりに動いているように、
そして、からだには、多くの部分があり、
それぞれちがった働きをしているように、
私たち一人一人も、それぞれ、違っていて、
それぞれ、〔父である神〕が思われるとおりの、
違う働きをしていくのだそうです。
一つ意思のもとで(Ⅰコリント12:12~18)。


 イエスは、エルサレムのベテスダの池の回廊で、
38年もの間、病気にかかっていて、
水の動くのを待っている人を見て、
「よくなりたいのか」と問い、
言われたのだそうです。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい」、と。
すると、その人はすぐに直って、
床を取り上げて歩き出したのだそうです(ヨハネ5:1~9a)。

 しかし、これも、
エスひとりの考えでしたことではなく、
〔父である神〕の御思いを受けてなさったこと、なのですね。

 イエスご自身が、
「子は、父がしておられることを見て行う以外には、
自分からは、何事も行うことができません。」(ヨハネ5:19)、
「あなたがたは、
わたしがわたし自身からは何事もせず、
父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを
知るようになります」(ヨハネ8:28)
と言っておられる方ですから。

 〔父である神〕は、
このイエスのように、
私たち一人一人を通しても、しようと思っておられることがあるのだそうです。

 私たちは、天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」
と望まれて造られたのだそうですね(創世記1:26)。

 〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神は、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に一つになっておられる方。

 私たちは、神の、その一つに加わる者をと願われて造られたのだそうです。

 けれども、私たちの始祖、アダムは、
その神との一つの場にとどまることを善しとせず、
もっと偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、
自分一人の理性による善し悪しの判断で事を決め、生きる者、
天の神、主に背き、対立、対抗して生きる、
「的外れ」の存在になったのだそうです(創世記3:5、22)。

 そして、私たちは、
このアダムの性質を受け継ぎ、
「的外れ」の者として生まれて来ているのだそうですね。

 〔父である神〕は、
このわたし自身である、〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑で
処刑された者、死んだものとしてくださるのだそうです。

 それで、私たちは、
この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
死んだものから出て来たものと認めて、
エスの前に差し出し、見ていただき、受け取っていただきながら生きるのだそうです。

 そして、イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~38)。

 

 それで、この私たちも、
この部分においては、
〔父である神〕と同じ思いを思い、
心を一つにするようにしていただけるのですね。
エスのように、
〔父である神〕がしようとすることをしていく者に。
今日も。

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