風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神の御思いに心傾け

 主よ、

不当な利益にではなく、

あなたの心の定めに

心を傾けるようにしてください。詩119:36

 

 金銭の欲は、すべての悪の根です。

しかし、神の人よ、

あなたはこれらのことを避けなさい。

正義、信心、信仰、

愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。Ⅰテモテ6:10、11

 

 列王記上3:16~28

 ヨハネ7:40~52(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句7/30;月)

 

 私たち人間は、

天の神、主、

「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方によって、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)

と願われて造られたものなのだそうです。

 

 〔父である神〕、

〔御子である神〕、

〔聖である霊〕と呼ばれる神が、

愛において、

自由意志で、自発的に、

思いを一つにし、

心を一つにし、

行動を一つにし、

存在を一つにしていらっしゃる、

その一つに加わるものを、との願いにおいて。


 けれども、最初の人、アダムをエバは、

その、神との一つの場に居続けることをせず、

自分をもっと素晴らしい者に、偉い者にしようとして、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです。

 

 神に背き、

神を無視し、

あるいは、対立、対抗して、

自分一人の理性の善し悪しの判断で事を行っていく、

創造の目的から「的外れ」になった者に。


 そして、アダムの子孫である私たちは、

このアダムの「的外れ」の性質を負って生まれて来ているのですね。

 それで、

この「的外れ」になっている

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、

「不当な利益」、

本来、自分に与えられたものではない利益を追い求める、

自分一人で、良いもののすべてを独占してしまいたい思いなのですね。

神の御思いを聞こうとはしないで。


 けれども、天の神、主は、

人となられた〔神の御子〕、イエスが受けてくださった

十字架刑での処刑に私たちを合体させてくださって、

私たちの、この、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている

〔生まれたときからの私〕という霊を、

処刑が終わったもの、死んだものとしてくださるのだそうです。


 そのうえで、受け入れる者に、

もう一人の方、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、

受け入れる者の心に

〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置き(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

受け入れる者の心に

〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださるのだそうです。


 それで、天の神、主は、

私たちが、事ごとに、

この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、

処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであることを認め、計算して、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる

〔父である神〕の御思いに心を向けていくようにしてくださるのだそうです。

 

 私のうちの〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、

不当な利益、金銭の欲を求める思いは、

死んだものから出て来た思いとしてイエスの前に差し出し、

受け取っていただきながら、

神の御思い、

正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和が心にあるようにしてくださるのだそうです。

 

 王となったばかりのソロモンのところに、

ふたりの遊女が訴え出たのだそうです。

二人が三日違いで、それぞれ子供を産み、

ふたりだけで、ほかにはだれもいない夜のこと、

片方の女が自分の子の上に伏してしまい、赤ん坊が死んだのですが、

それと気づいたこの女は、

もう一人の女のそばから生きている赤ん坊を取り

自分のふところに抱いて寝かせ、

死んだ赤ん坊をもうひとりの女のふところに寝かせたので、

 

 その女が、朝、起きてよく見ると、

その死んだ赤ん坊は自分の子ではなかったということで、

ふたりの女がそれぞれ、

その生きている赤ん坊が自分の子だと訴えたのだそうです。


 そのとき、ソロモン王は、

家来に剣を持って来させ、

「生きている子どもを二つに断ち切り、

半分をこちらに、半分をそちらに与えなさい」と命じたのだそうです。

 

 すると、生きている子の母親は、

自分の子をあわれに思って胸が熱くなり、

王に申し立てて言ったのだそうです。

 

 「わが君。

どうか、その生きている子をあの女にあげてください。

決してその子を殺さないでください」、と。

 

 しかし、もうひとりの女は、

「それを私のものにも、あなたのものにもしないで

断ち切ってください」と答えたので、

 

 王は宣告を下し、

「生きている子供を初めの女に与えなさい。

決してその子を殺してはならない。

彼女がその子の母親なのだ」、と言ったのだそうです。


 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

事に当たって、

そのような知恵も

私たちの心にも、

置いてくださるのですね。


 イエスの話しを聞いた人々の中のある者は、

「あの方は、確かにあの(モーセが預言している)預言者だ」と言い、

またある者は「この方は、キリストだ」と言い、

エスを捕らえに来た役人も、

空手で祭司長たちのもとに帰り、

「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」と言ったように。

 

私たちにも。

今日も。

 

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