風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分の頭の回転を止めて、心に来る御思いに聞く者に

 私の魂は沈黙して、
ただ神に向かう。
神に私の救いはある。
詩62:2

 イエスの言葉:
わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。
マタイ28:20

 サムエル記上17:38~51
 ヨハネ10:22~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/14;火)

 

 イエスは言われました。

「しかし、わたしは真実を言います。

わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

それは、もしわたしが去って行かなければ、
助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、
わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7新改訳)。

 「わたしは父にお願いします。
そうすれば、父は
もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでも
あなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。

 だから、厳密に言うならば、
今、私たちとともにいてくださるのは、
このもう一人の助け主と言われる
〔聖である霊〕と呼ばれる方ということなのでしょうね。

 〔父である神〕は、
私たち人間を、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
と願って創造されたのだそうです。

 「われわれ」、
〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に、一つになっておられる(ヨハネ10:30)、
その「ひとつ」を表すもの、
その「ひとつ」の関係に、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に、加わる者をと願って。

 けれども、アダムとエバは、
その、神との「ひとつ」の場にとどまることを善しとせず、
もっと善い者に、偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになる道を選び(創世記3:5、22)、
造り主である天の神、主にそむき、対立、対抗する、
創造の目的からずれた、
「的外れ」の者になったのだそうです。

 そして、アダムの子孫である私たちは、
この「的外れ」の性質をもって生まれて来ているのだそうです。

 天の神、主は、
この「的外れ」、出来そこないになった私たち人間を
なお愛して、
ゲヘナの谷でエルサレム生ごみが焼却処分されているように、
処分してしまうことを惜しんで、
最初の目的、
「われわれのかたち、われわれに似せた」者、
「わたしたちが一つであるように、
(わたしたちと)一つ」になる(ヨハネ17:21~22)ように、
回復しようとしていてくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
〔御子である神〕を
アダムの〔的外れ〕を受け継いでいない
「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫であるナザレ村の一処女、マリヤの胎を通して、
人間イエスとして、人の世に派遣し、
この方がおよそ33歳の時、
私たちすべての人間の「そむき」、「的外れ」の責任をこの方の上に負わせて、
「神に呪われた者」(申命記22:23)として、
十字架刑で処刑されたのだっそうです。

 そして、このイエスの十字架刑での処刑を
自分の処刑と受け入れる者の、
「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なっている、
〔生まれたときからの私〕という霊を
このイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを私たち心に置き、
ご自身の御思いが
受け入れる者の心にあるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
受け入れる者が、
御自身と同じ思いを思い、
一つ心になり、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。
エスがそうであったように(ヨハネ6:38)。

 それで、この生き方を受け取っている者は、
事ごとに、クルクル頭を働かせ、理性を動かして、
事の善悪を判断している、
〔生まれたときからの私〕、
自分の魂を沈黙させ、
天の神、主の御思いに心を向けていくようになるのだそうです。
頭で生きるのではなく、
腹(ヨハネ7:38「その人の内」原語は「腹」)で生きる者に。
天の神、主の御思いが成ることを願って。
今日も。

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