風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

惜しんで、滅ぼさず、きよめ、御心に沿う者に代え

主の言葉:

お前は、
自分で労することも育てることもなく、
一夜にして生じ、滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。

 それならば、どうしてわたしが、
この大いなる都ニネベを
惜しまずにいられるだろうか。
ヨナ書4:10~11

 

 自分の利益ではなく

他人の利益を追い求めなさい。Ⅰコリント10:24

 

 ルカ22:54~62

 Ⅰヨハネ1:5~10(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/17;金)

 

 紀元前700年頃のこと、

イスラエル王国で活動していた預言者ヨナは、

天の神、主から、敵国、アッシリアの首都ニネベに派遣され、

「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」と叫んで回ったのだそうです。

 

 すると、ニネベの人々は、王を初め、身分の高い者から低い者まで

荒布を着、断食をして、ひたすら神にお願いし、

おのおのが悪い道から立ち返るよう努力したのだそうです。

「もしかすると、神が思い直してあわれみ、

その燃える怒りをおさめ、

私たちが滅びないで済むようにしてくださるかもしれない」、と。

 

 それをご覧になった神は、

彼らに下すと言っておられた災いを思い直し、そうされなかったのだそうです。

 

 それで、ヨナは非常に不愉快になり、

怒って、主に祈って言ったのだそうです。

「ああ、主よ。

私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。

それで、私はタルシシュ(スペインの町)へ逃れようとしたのです。

私は、あなたが情け深く憐れみ深い神であり、

怒るのにおそく、恵み豊かであり、

わざわいを思い直されることを知っていたからです。

 

 主よ。今、どうぞ私のいのちを取ってください。

私は生きているより死んだほうがましですから。」

 

 ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、

そこに自分の仮小屋を作り、

町の中で何が起こるかを見きわめようと、

その陰にすわっていた。

 

 神である主は一本のとうごまを備え、

それをヨナの上をおおうように生えさせ、

彼の頭の上の陰として、ヨナの不機嫌を直そうとされた。

ヨナはこのことを非常に喜んだ。

 

 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備え、

虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。

 

 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられ、

太陽がヨナの頭に照りつけたので、

彼は衰え果て、自分の死を願って言った。

「私は生きているより死んだほうがましだ。」

 

 すると、神はヨナに仰せられた。

「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」

そして、仰せられた。

「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、

一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。

まして、わたしは、

この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。

そこには、右も左もわきまえない12万人以上の人間と、

数多くの家畜とがいるではないか。」

 

 

 天の神、主は、

「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、

「わたしたち(父である神と御子である神イエスと聖である霊と呼ばれる神)が

一つであるように、

彼らが(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~22)ように

との願いで造られていながら、

その、造り主である天の神、主にそむき、

対立、対抗して、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」(創世記3:5、22)者になって、

創造の目的からずれた、

「的外れ」になっている私たち人間をなお、

惜しんでくださっているのだそうです。

 

 それで、〔父である神〕は、

ご計画の時が満ちたとき、

〔御子である神〕を、

アダムの「的外れ」を受け継いでいない

「女の子孫」(創世記3:15)として、

ナザレ村の一処女、

ダビデの子孫の一人であるマリヤの胎を通して、

人間イエスとして人間の歴史の中に派遣し、

私たち人間の「的外れ」の責任のすべてをこの方に負わせ、

この方がおよそ33歳の頃、

十字架刑で処刑されたのだそうです。


 そして、「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、

この私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、

このイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、

処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そのうえで、受け入れる者に、

もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、

この方の働きで、

受け入れる者の心に、

ご自身が一人一人の思っておられる御思いを置いてくださり、

受け入れる者の心に御自身の御思いがあるようにしてくださるのだそうです。


 それで、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊からは、

自分の利益を求める思い、

自分が一番になり、

良い者のすべてを自分一人で独占したい思いしか出て来ませんが、

そのような私たちの心にも、

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

「自分の利益ではなく、他人の利益を追い求める」思いも、

置いてくださるのだそうです。

 


 イエスが捕らえられ、裁判にかけられているとき、

女中や下役の男から

「おまえも、彼らの仲間だ」と言われ、

三度も、「私はあの人(イエス)を知りません」と否定するペテロを、

エスは、やさしく見守ってくださり(ルカ22:54~62)、

 

 前もって、

「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と告げ、

「シモン、シモン。

見なさい。

サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

しかし、わたしは、

あなたの信仰(信頼、神との関係)がなくならないように、

あなたのために祈りました。

だからあなたは、立ち直ったら、

兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31~34)と言ってくださっていたように。

 

 

 私たちの心に行き来する思いを、

自分一人で抱え込まないで、

隠さないで、神の前に差し出し、

見ていただき、知っていただくなら、

天の神、主は、それを光の中の出来事、明るい出来事に変え、

御子イエスが十字架刑での処刑でささげてくださった血で、その罪を赦し、

全ての悪からきよめてくださるのだそうですから(Ⅰヨハネ1:5~10)。

今日も。

 

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