風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

真の平和と自由の中で

 彼こそ、

まさしく平和である。ミカ書5:4

 

 どうか、

平和の主ご自身が、

いついかなる場合にも、

あなたがたに平和をお与えくださるように。

主があなたがた一同と共におられるように。Ⅱテサロニケ3:16

 

 黙示録2:8~11

 ガラテヤ書4:21~31(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/5;金)

 

 彼、イエスこそ、平和そのものであり、

私たちに平和を与えるために来られた方。

エスが共にいてくださることが平和、なのでしょうかね。

 

 私たちが

「神のひとりのようになり、善悪を知る」(創世記3:5、22)ようになっている間は、

私たちに平和はないのでしょうね。

 

 私たちに平和を与えるために、

エスが、私たちの身代わりになって、

私たちが負うべき「的外れ」の責任のすべてをご自身に負って、

神に呪われた者として、

十字架刑での処刑を受けてくださり、

 

 「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、

このわたし自身の〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑が終わったもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そのうえで、

もうひとりの方、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来てくださって、

私たちの心に、

〔父である神〕が私たち一人一人に持っていてくださる御思いを

置いてくださるのだそうですから。

 

 イエスによって、

〔生まれたときからの私〕という霊に死に、

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって

〔父である神〕と思いを一つにしていただき、

〔父である神〕、

〔御子である神〕、

〔聖である霊〕と呼ばれる神が

互いに愛し合って、思いを一つにしていらっしゃる、

その愛の中に入れていただく、

そこに私たちの平和があるようです。

 

 平穏無事なことによる平和ではなく、

苦しみと貧しさ、

サタンの会衆である人たちからのののしり、

投獄される中にあっても動かない平和、

エスによっていのちの冠を与えていただける平和(黙示録2:8~11)なのだそうです。

 

 御霊によって新しく生まれた者、

御霊、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が

心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって生きる者は、

上にあるエルサレム

自由の女の子どもなのだそうですから(ガラテヤ4;21~31)。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって

エスと一つ心になって

共に生きる。

今日も。

 

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