風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

天の神、主が、私たちと共にいてくださって

 行くがよい。

主がお前と共におられるように。サムエル記上17:37

 

 何をするにしても、

すべて神の栄光を現すためにしなさい。Ⅰコリント10:31

 

 Ⅰコリント14:26~33

 黙示録3:1~6(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/18;木)

 

 戦いをいどむペリシテ人

ガテ出身の巨人ゴリアテを前にして、

少年ダビデは、サウル王に言ったのだそうです。

「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、

あのペリシテ人からも私を救い出してくださいます」と。

 

 そのような特別なときばかりではなく、

普段の、日常の生活の中の一つ一つの出来事においても、

天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方が

共にいてくださって、

〔父である神〕の御思いのとおりに

事を為させてくださっているのだそうです。

 

 だから、どんな小さいと思えることも、

食べられるのも、飲むことができるのも、

「神の栄光の現れ」なのですね。

 

 だから、感謝し、賛美をささげるのは

正しい在り方なのでしょうね。

 

 それで、私たちが集まるとき、

それぞれの人が、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いによって、

賛美したり、教えたり、黙示を話したり、

異言を話したり、解き明かしをするのですが、

 

 〔父である神〕は、

そのすべてのことを、

みんなの徳を高めるためにしてほしいのだそうです。

 

 それで、もし、だれかがみんなに向かって

メッセージや証しをするように異言で話すのならば、

ふたりか、多くても三人が順番に話し、

ひとりは解き明かしをするように、と言われるのですね。

 

 もし解き明かす者が誰もいなければ、

みんなに向かっては黙っていて、

自分だけで、神に向かって話しているようにと。

 

 預言をする者も、ふたりか三人が話し、

ほかの者は、その預言を吟味するとよいのだそうです。

 

 もし座席に着いている別の人に黙示が与えられたら、

先の人は、話すのをその人に譲って、黙って座るのですね。

 

 私たちは、みながかわるがわる預言ができるのであって、

すべての人が学ぶとができ、

すべての人が勧めを受けることができるのだそうですから。

 

 私たち自身は、

自分に与えられた霊的な賜物も、

誇り、自己主張したい者ですが、

 

 私たちと共におられる神は

混乱の神ではなく、

平和の神なのだそうですから(Ⅰコリント14:26~33)。

 

 イエスは、

御自身と思いを同じくし、心を一つにして、

共に歩む者の名を、

〔父である神〕と御使いたちの前で

言い表してくださるのだそうですから(黙示録3:4~5)。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして、

共に歩む。

今日も。

 

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