風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

愛に心燃やされて

私は大いなるつどいの中で、

あなたに感謝し、

多くの民の中で、

あなたをほめたたえるでしょう。詩35:18

 

 すべての舌が、

イエス・キリストは主である」と公に宣べて、

父である神をたたえるのです。フィリピ書2:11

 

 黙示録3:14~22

 黙示録9:1~12(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句11/1;木)

 

 イエスは、神の御姿である方なのに、

神のあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、

人間と同じようになられました。

自分を卑しくし、

〔父である神〕の御思いに、死にまで従い、

実に十字架の死にまでも従われました。

それゆえ神は、

この方を高く上げて、

すべての名にまさる名をお与えになったのだそうです(ピリピ2:6~9新改訳)。

 

 それで、私たち、

エスが受けてくださった十字架刑での処刑で、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって、

「わたしたちが一つであるように、わたしたちと一つになる者を」

戸の創造の目的から大きく「的外れ」になっている(創世記3:5、22)、

この〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑済みのもの、死んだものとしていただき、

 

 すべての名にまさる名を得られて、

〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔

聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

この方によって、

〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを

心に置いていただき、

〔父である神〕と思いを同じくし、

心を一つにして生きるようにしていただいたた者は、

大いなるつどいの中で、

多くの民の中、公の場で

イエス・キリストは主である」と告白して、

〔父である神〕に、感謝と讃美をささげるのですね。

 

 でも、私たち、長い時間の中で、

いつしか、恵みに慣れてしまって、

熱くもなく冷たくもない、生ぬるくて、

口から吐き出されるような状態になってしまいます。

 

 けれども、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

私たちに始めの愛を思い出させてくださり、

エスと一緒に食事をする者にして、

心を熱くしてくださり、

 

 イエスから、

「私と共にわたしの座に着かせよう」(黙示録3:14~22)

と言っていただける者にしてくださるのだそうです。

 

 底知れぬ穴から出て来たいなごによって、

死んだほうがましだと思えるような苦しみ、

災いが来るときにも、

額に神の印を押していただいている者は、

その害を受けることはなく、

通り過ぎさせてくださるのだそうですから(黙示録9:1~12)。

 

 イエスを主と仰ぎ、

思いを一つにしていただきながら。

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

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