風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私たちと、いつも、一緒にいて

あなたの出で立つのも帰るのも、

主が見守ってくださるように。

今も、

そしてとこしえに。詩121:8

 

 私たちは

この地上に永遠の都を持っておらず、

来るべき都を捜し求めているのです。ヘブル書13:14

 

 ヨハネ3:17~21

 イザヤ書1:10~20(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句11/20;火)

 

天の神、主、

「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちが出て行くときも、帰るときも、
いつも、一緒にいて見守っていてくださる方なのですね。
この地上を歩むすべての道において。
やがて実現する天の都に帰るその時まで。

 

〔父である神〕が、
〔御子である神〕を、
人間イエスとして、この人の世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため、なのだそうです。

 イエスを救い主として受け入れた者は、
もう、さばかれることはないのだそうです。

 

エスが十字架刑での処刑を受けて成し遂げてくださった、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑を受け取った者は。

 墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 

そのイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
その方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いと思いを一つにして生きる者は。

けれども、この神からのプレゼントを無視し、受け取らなかった者は、
その、受け取らない行為自体で、
自分を、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
「的外れ」の状態のままにとどめることになるのだそうです。

 それで、その自分の責任を自分で取ろうとして、
アダムとエバがそうしたように、神から隠れ、
自分の「的外れ」を隠し、
自分を神の前の明るみに出そうとはしないのですね。

 ありのままの、
「的外れ」のままの自分を神の前に、
光の中に差し出せば、
エスによって
光の中の出来事にしていただけるのに(ヨハネ3:17~21、エペソ5:13~14)。

 神は、
私たちの「緋のように、紅のように、赤い的外れ」を、
エスによって、
雪のように、羊の毛のように、
白くしようとしていてくださるのだそうですから。

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
いつも、いつまでも、私たちと一緒にいて、
私たちを見守り、
私たちの心にも
〔父である神〕の御思い、
善をなすことを習い、
公正を求め、

しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをなし、
やもめのために弁護する思いも置いてくださるのだそうですから。
喜んで聞こうとする思いも(イザヤ1:10~20)。

今日も。

 

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