風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

イエスは、私たちを、耐え難い重荷から救うために来られて

主のために、

荒野に道を備えよ。

見よ、

主なる神は力を帯びて来られる。イザヤ書40:3、10

 

 私の罪悪は頭を越えるほどになり、

耐え難い重荷となっています。詩38:5

 

 天使はヨセフに告げた。

「マリアは男の子を産む。

その子をイエスと名付けなさい。

この子は自分の民を罪から救うからである。」マタイ1:21

 

 マタイ11:2~6(7~10)

 詩33(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句12/16;Ⅲ日曜)

 

 頭を超えるほどの私たちの罪悪、

耐え難い重荷。

 

 イエスは、

その私たちの罪をご自身の身に負い、

私たちに代わって処刑を受けることによって

私たちを処罰が済んだものとし、

私たちを罪から救うために来てくださった

〔御子である神〕なのだそうです。

 

 当時、ローマの支配下にあって苦しんでいたユダヤの人々は、

ローマ軍を打ち破り、

自分たちをローマの支配下から解放し、

ダビデの繁栄を回復してくれる政治的解放者、

救い主をイエスに求めたのですが、

エスは、そのような方向に行こうとなさらなかったのですね。

 

 それで、

エスを救い主、キリストとして世に紹介したバプテスマのヨハネは、

このとき、ヨハネは、領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したことで捕らえられ、

牢獄にいたのですが、

獄中から弟子たちに託して、言い送ったのだそうです。

 

 「おいでになるはずの方は、あなたですか。

それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」と。

 

 イエスは答えて言われました。

「あなたがたは行って、

自分たちの見たり聞いたりしていることをヨハネに報告しなさい。

目の見えない者が見、

足のなえた者が歩き、

ツァラート(律法に規定されている伝染性の重い皮膚病)に

犯されている者がきよめられ、

耳の聞こえない者が聞き、

死人が生き返り、

貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。

だれでもわたしにつまづかない者は幸いです」(マタイ11:2~6)、と。

 

この、最初に人の世に来られたとき、

エスは、軍馬にではなく、子ろばに乗る柔和な方として、

私たちの身代わりとなり、

私たち人間の「的外れ」の責任を負って

十字架刑での処刑を受けるために来られたのですが、

 

 次に来られる時には、

王として、力を帯びて来られるのだそうです。

 

 それで、私たちも歌うのですね。

「私たちのたましいは

主、「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方を待ち望む。

主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。

私たちは、聖なる御名に信頼している」(詩篇33:20~21)と。

 

 この新しい週も。

 

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