風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

イエスが来られるその日まで守ってくださる方を避難所として

いかに幸いなことか、
主を避けどころとする人はすべて。
詩2:12

 

 パウロの言葉:
私は自分が信頼している方を知っており、
私にゆだねられているものを、
その方がかの日まで守ることがおできになると
確信しています。
Ⅱテモテ1:12

 

 黙示録22:16、17、20、21
 イザヤ書35:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/22;土)

 

 幸いなのですね。
天の神、主、
「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方を
避けどころ、避難所とし、
そこに逃げ込む者は。

 

 その方は、
ご自身が御心のとおりに私たち一人一人にゆだねているもの、
あずけているものを守ってくださる方、なのだそうですから。

 

 私たちは、自分の能力や地位、健康、
環境や状態、
あるいはまた、神に対する信頼、宣教の使命などを
自分で得たかのように思っていますけれど、
これらはすべて、天の神、主が、御心のとおりに
私たちに預けてくださっているもの、なのですね。

 

 あのイエスのたとえ話に出て来る、
主人から「これで商売をしなさい」と、
それぞれ、5タラント、2タラント、1タラントを預かったしもべたちのように。


あるいは、主人の財産の管理を任された家令のように。

 

 

 「わたしは、ダビデの根、また子孫、
輝く明けの明星である」とおっしゃる方、イエス


 そのイエスに、御霊も、
花嫁である私たちも言うのですね。
「来てください」と。

 

 イエスは答えて言われます。
「しかり。わたしはすぐに来る。
渇く者は来なさい。
いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙示録22:16、17、20、21新改訳)と。


 その方が、それらを、
その日まで、守り、全うさせてくださるのだそうですから。

 

 

 その日には、
荒野と砂漠は楽しみ、
荒地は喜び、
サフランのように花を咲かせる。

盛んに花を咲かせ、喜び、喜んで歌う。

レバノンの栄光とカルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、

彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見ることになる、のだそうです。

 

 だから、弱った手を強め、
よろめくひざをしっかりさせよ。
心騒ぐ者たちに言え。
「強くあれ。恐れるな。
見よ、あなたがたの神を。
復讐が、神の報いが来る。
神が来て、あなたがたを救われる。

 

 そのとき、目の見えない者の目は開き、
耳の聞こえない者の耳はあく。

そのとき、足のなえた者は鹿のように飛び跳ね、
口のきけない者の舌は喜び歌う。
荒野に水がわき出し、
荒れ地に川が流れるからだ。
焼けた地は沢となり、
潤いのない地は水のわく所となり、
ジャッカルの伏したねぐらは、
葦やパピルスの茂みとなる。

 

 そこに大路があり、
その道は聖なる道と呼ばれる。
汚れた者はそこを通れない。
これは、贖(あがな)われた者たちのもの。
旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
そこには獅子もおらず、
猛獣もそこには上って来ず、
そこで出会うこともない。
ただ、贖われた者たちがそこを歩む。

 

 主に贖われた者たちは帰って来る。
彼らは喜び歌いながらシオンに入り、
その頭にはとこしえの喜びをいただく。
楽しみと喜びがついて来、
悲しみと嘆きとは逃げ去る(イザヤ35:1~10)、のだそうですから。

 

 だから、私たちも言うのですね。
「主、イエスよ。来てください」と。

 

今日も。

 

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