風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「〔われわれ〕のかたちとして、〔われわれ〕に似たものを

主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。」
創世記2:18

 

 シメオンは幼子を抱き、
神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、
お言葉どおりこの僕を
安らかに去らせてくださいます。
私はこの目で
あなたの救いを見たからです。」
ルカ2:28~30

 

 ヨハネ1:1~5(6~8)9~14
 ヘブル書1:1~3(4~6)
 マタイ2:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句12/26;水)

 

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、
われわれに似せて」と思われて、

 

 まず、人の住まいとしてこの天地宇宙を造り、
地球の自然環境を整え、
すべての準備が終わったところで、アダムを造り、
これをエデンの園に置いてくださったのだそうです。

 そして、アダムのあばら骨からエバを造り、
ふたりが結婚によって「一体」となることで、
「神(われわれ)のかたち」を表すもの、
「神(われわれ)に似た」ものとされたようです。

 

 

 しかし、人は、
この「神のかたち」、「神(われわれ)に似せられた」場、
神と一体になっている場にとどまることを良しとせず、
もっと素晴らしい者に、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになろうと思い、
天の神、主に対抗、対立するものとなり、
創造の目的から「的外れ」になってしまったのだそうです。

 

 天の神、主は、
人が「的外れ」になった、その当初から、
「おまえ(サタン)の子孫と女の子孫との間に敵意を置く。
彼は、おまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく」
と預言しておられました(創世記3:15)。

 

 

 数千年、歴史は下って、
エスの親となったヨセフとマリヤは、
きよめの期間(40日)が満ちたので、
モーセの律法の規定に従って、幼子を天の神、主にささげるため、
エルサレム神殿に行きました。

 

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいました。
彼は「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と、
聖霊のお告げを受けていたのだそうです。

 

 シメオンは、神の御霊に感じて宮に入り、
幼子イエスを見て、腕に抱き、神をほめたたえて、
「主よ、今こそあなたは、
お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
私はこの目であなたの救いを見たからです」と言ったのだそうです。

 

 

 このイエスについて、12使徒のひとり、ヨハネは次のように記しています。
初めに、ことばがあった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。

 

 すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった。

 

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、
世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。

 

 この方はご自分のくにに来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。
 しかし、この方を受け入れた人々、
すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとされる特権をお与えになった。

 この人々は、血によってではなく、
肉の欲求や人の意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。

 

 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:1~5、9~14新改訳)。

 

 

 また、ヘブル書の記者は言います。
神は、むかし父祖たちに、
預言者たちを通して、多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られましたが、
この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。

 

 神は、御子を万物の相続者として、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられます。


 また、罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」(ヘブル1:1~3)、と。

 

 

 このイエスが、およそ33歳の頃、
「自分を神の子と言い、自分を神と等しいものとし、神を冒涜した」として、
ユダヤの指導者たちの反感を買い、訴えられ、
ユダヤ人の王」として(マタイ2:2、ヨハネ19:19)、
十字架刑での処刑を受けられたのですね。

 

 そして、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、上げられ、
天の父である神の右の座に復帰されたのだそうです。


 〔父である神〕は、私たちを、
このイエスに合わせられたものとしてくださって、
〔神のひとりのようになり、善悪を知る者〕になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
十字架刑で処刑されたもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 

 そのうえで、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。

 

 それで、私たちは、
この〔生まれたときからの私〕から出て来る思いは、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認めて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る
〔父である神〕の御思いを
私の思いとして生きるようにしていただけるのだそうです。

 

 〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛において、自由意思で、自発的に
思いを一つにし、心を一つにしておられる、一体となっておられる、
そのかたちを表すもの、似たものとして。

 

今日も。

 

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