主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、
あなたたちの力の源である。ネヘミヤ記8:10
希望の源である神が、
信仰によって得られる
あらゆる喜びと平和とで
あなたがたを満たしてくださるように。ロマ15:13
Ⅰヨハネ3:11~16a
マタイ3:13~17(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句12/29;土)
バビロンの捕囚からエルサレムに帰ってきた人たちは、
まず、神殿を再建したのですが、
エルサレムは城壁は崩れたままの裸の町で、
近隣の民のそしりの中にあったのだそうです。
それで、
ペルシャの王アルタシャスタに献酌官として仕えていたネヘミヤは、
王に願い、総督としてエルサレムに帰り、
民を指導して城壁を再建したのですね。
そして、第七の月の一日
(レビ記23:24、ラッパが吹き鳴らされ、聖なる会合を開く日)に、
民はみな、いっせいに、水の門の前の広場に集まったのだそうです。
それで、祭司であり学者であるエズラは、
夜明けから真昼まで律法の書(創世記~申命記)を朗読し、
レビ人たちは民に律法を解き明かしたのですね。
民は読まれたことを理解し、みな泣いていたのだそうです。
そのとき、ネヘミヤやエズラ、レビ人たちは民に言ったのだそうです。
「きょうは、あなたがたの神、主のために聖別された日である。
泣いてはならない。悲しんではならない。
行って、上等の肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。
何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。
きょうは、私たちの主のために聖別された日である。
悲しんではならない。
主を喜び祝うことこそ、あなたがたの力の源であるから」と。
私たちも、聖書のことばに照らすとき、
天の神、主の御思いから大きく「的外れ」になっていることが解る者です。
〔父である神〕は、私たちの、その「的外れ」の責任のすべてを、
〔御子イエス〕の上に置き、
この方を神に反逆した者、神に呪われた者として十字架刑で処刑されたのだそうです。
そして、私たちをこのイエスに合わせられたものとし、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑が終わっているもの、死んだものとしてくださっているのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に
御自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、
私たちをご自身と一つ思いになって生きる者にしてくださるのだそうです
(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28))。
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)
と言っていただける愛によって、
私たちが神のうちにおり、
神も私たちのうちにおられる者に(Ⅰヨハネ4:11~16)。
それで、このことを受け取った者、もらった者は、
〔生まれたときからの私〕に死んで、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きる、
新しく生まれた者(ヨハネ3:1~8)として、
〔御霊〕に導かれて進む者に(ガラテヤ5:25)
していただけるのだそうです。
だから、どんなに自分の「的外れ」が見えても、
「泣いてはならない。主を喜び祝いなさい」
と言っていただけるのだそうです。
望みの神、希望の源である神は、私たちを、
この方への信頼関係で得られるあらゆる喜びと平和で満たし、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の力によって
望みにあふれさせてくださるのだそうですから。
今日も。
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