風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

約束の言葉のとおりに、実現しているのですから

ダビデの祈り:
主なる神よ、
今この僕とその家について賜ったお言葉を
とこしえに守り、
御言葉のとおりになさってください。サムエル記下7:25

 

 神の約束は、
ことごとくキリストにおいて
「然り」となりました。
それで、私たちは神をたたえるため、
この方を通して「アーメン」ととなえます。
Ⅱコリント1:20

 

 ルカ12:35~40
 ロマ8:31b~39
 マタイ4:12~17
  (通読箇所)(ローズンゲン日々聖句12/31;月)

 

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
ダビデとその家について約束されたことを、
そのことばのとおりに守り、実現されたのですね。

 

 神が、聖書の中で約束されたことは、
すべて、イエスによって実現し、
「然り」、「本当」となったのだそうですから。

 

 神は、アブラハムに、
「わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、
あなたの名を大いなる者としよう。
あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろうものをわたしはのろう。
地上のすべての民族は、
あなたによって祝福される」(創世記12:2~3)、
「あなたの子孫にこの地を与える」(創世記12:7)とおっしゃられたのですね。

 

 そして、アブラハムの子孫としてイスラエル民族を起こし、
その中にダビデ王家を起こして、
「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、
あなたの後に起こし、
彼の王国を確立させる。
わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」と約束されました。

 

 そして、「彼は、おまえ(サタン)の頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく」
と約束された「女の子孫」(創世記3:15)として、
〔御子である神〕を人間イエスとして、
そのダビデの子孫である処女のマリヤの胎を通して、
この人間の歴史の中に派遣されたのだそうです。

 

 このイエスは、およそ、33歳の頃、
ユダヤ人の指導者たちのねたみにより、
「自分を神の子、キリストだと言い、
人間でありながら、自分を神と等しい者とした」として、
神を冒涜する者として訴えられ、
神に背く者、神に呪われた者として、十字架刑で処刑されました。

 

 しかし、〔父である神〕は、

墓に葬られたこのイエスを、
三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活させ、
40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、
神の国のことを語らせた後、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、天に引き上げられ、
ご自分の右の座に復帰させなさったのだそうです。

 

 「エルサレムを離れないで、
私から聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、
あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」(使徒1:4~5)
と言い残して。

 

 そして、それから10日後の
五旬節(ペンテコステモーセの律法授与の記念日)の日に、
約束のとおりに(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
待ち望んでいた弟子たちに、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来られて、
弟子たちは、この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いのままに話し出したのだそうです(使徒2:1~4)。

 新約、新しい契約が実現し、
それからおよそ2000年、現在の私たちにも届いているのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる神が来てくださり、
私たちの心に〔父である神〕が
私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださって、
受け入れる者が〔父である神〕と心と思いを一つにしながら生きる、
という事実が。

 

 さらに、このイエスは、
「また、来る」と言い残しておられるのですね(ヨハネ14:1~3)。
いつ来られるのか。
その来られるのは、
婚礼から帰って来る、家の主人のように、だというのですね。
当時のユダヤの婚礼は1週間ほど続くので、
婚礼に行った主人がいつ帰って来るのか分からなかったのだそうです。
真夜中か、夜明けなのか。

 

 あるいは、泥棒のように思いがけない時に来るのだそうです」(ルカ12:35~40)。
「然り」、事実として。

 

 私たちは、この約束のことばを、
通り過ぎて、あるいは退いて、滅びてしまうものではなく、
受け取り、とどまって、いのちを受ける者、なのですね。

 

 使徒パウロが言うように、
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、
ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょに
すべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

 

 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。
神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、
いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、
神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
どんなものも、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできない(ロマ8:31~39)、のですから。

 

 この1年間がそうであったように、

今日も、
新しい年も。

 

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