風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

喜び歌う声があふれる家にしようと

御救いを喜び歌う声が
主に従う人の天幕に響く。
主の右の手は御力を示す。
主の右の手は高く上がり、
主の右の手は御力を示す。
1181516

 

 主において常に喜びなさい。
重ねて言います。
喜びなさい。
フィリピ書4:4

 

 使徒16:9~15
 ロマ書3:1~20(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句1/28;月)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』 という者」と名乗られる方の
右の手は高く上げられ、
力ある働きをし、
ご自身の御力を示されるのですね。

 

 それで、その御業、御救いを受けた者たち家には、
喜び歌う声が響くようにしてくださるのだそうです。
ご自身に従う者たちを喜びに満ちあふれさせてくださって。

 

 パウロやルカたちを
エーゲ海を渡ってマケドニアのピリピへ導き、
パウロの語る言葉を聞いていたルデヤの心を開いて
パウロの語る事に心を留めさせ、
彼女とその家族がバプテスマを受け、
喜びに満ちあふれてパウロたち一行を家に泊め、
ピリピ教会の礎となさったように(使徒16:9~15)。

 

 私たちは、罪の下にある者で、
律法を行なうことによっては、罪の意識が生じるのみで、
「義人はいない。
ひとりもいない。
悟りのある人はいない。
神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、
みな、ともに無益な者となった。
善を行う人はいない。ひとりもいない」
ことが明らかになるばかりの者です(ロマ書3:9~20)。

 

 それで、天の神、主は、
私たち人間の働きに期待せず、
ご自身の側で、
御子イエスが受けられた十字架刑での処刑と
死人の中からの復活によって
私たち人間の救いを用意し、
恵みのプレゼントとして
なんの功績もない私たちに与えようとしていてくださるのだそうです。

 

 私たちの〔生まれたときからの私〕と言う霊を
エスに合わせて、
処刑されたもの、死んだものとし、
私たちの「的外れ」、背きの責任が果たされたことに
してくださるのだそうですから。

 

 そのうえで、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
もう一人の方、
妬むほどに愛しておられる〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださって、
受け入れる者の心に、ご自身の御思いを置き、書きしるして、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思う者、
心を一つにし、ご自身がしようと思うことをしていく者に
してくださるのだそうですから(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 喜び歌う声が満ちあふれる家に。
今日も。

 

 

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