風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と

私はあなたに向かって両手を広げ、
渇いた大地のような私のたましいを、
あなたに向けます。
詩143:6

 イエスの言葉:
疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
マタイ11:28

 

 ロマ書4:1~8
 ロマ書10:14~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句2/20;水)


 乾き切り、水を、雨を待ち望む大地のように、
私たちも渇いた魂を、
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方に向け、
御心が成ることを待ち望むのですね。

 

 「疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとに来なさい。
休ませてあげよう。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。
そうすれば魂に安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです」と仰られる方を。

 

 私たちは自分の行いで、自分の努力で、神の義に達して、
神の前に誇れるようになろうとするものですが、
その道は、神の義に達することができず、
本気になってやればやるほど、重荷となり、
疲れ果てる結果になるだけのようです。

 

 けれども、なんの働きも出来なかった者も、
不敬虔な者を義と認めてくださる方に信頼するなら、
天の神、主は、その信頼を義とみなしてくださるのだそうです。

 

 自分が、自分の力で義を行なう道とは違う、この別の道で
神によって義と認めていただく者は幸いなのですね。

 

 「不法を赦され、
罪をおおわれた人たちは、幸いである。
主が罪を認めない人は幸いである」(詩篇32:1~2)
と言われているように(ロマ4:1~8)。

 

 〔父である神〕は、〔御子である神〕を
「女の子孫」、人間イエスとして人の歴史の中に派遣し、
このイエスの十字架刑での処刑による死と、
死者の中からの復活によって、
〔聖である霊〕と呼ばれるが
「的外れ」になっている私たちのうちに来る道を
開いてくださったのだそうです。

 

 そして、受け入れる者にこの方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、
受け入れる者の心にご自身の御思いを置き、
書きしるしてくださるのだそうです。

 

 それで、受け入れる者は、
心に神の御思いを持つ者としていただけるのだそうです。
天の神、主と心と思いを一つにする者に。

 

 創造の目的のとおりの、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、
彼らも(わたしたちと)一つである」(ヨハネ17:21~23)者、
義なる者へと。

 

 それで、天の神、主は、私たちすべての人に、
このイエスによって開かれた新しい生き方を受け取ってほしいと、
聞いて、信頼して、受け取るようにと、
弟子たちを遣わし、宣べ伝えさせておられるのだそうです。
エルサレムから始まって、ユダヤとサマリヤの全土、
さらにちの果てにまで。
「その声が全地に響き渡り、地の果てまで届くように」、と。

 不従順で反抗する民にも、
一日中、手を差し伸べながら(ロマ10:14~21)。

今日も。

 

 

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