風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神は、私たちを導き、受け入れ、義の栄冠を与えようと

 あなたは
御計らいに従って私を導き、
後には栄光の内に
私を取られるであろう。
詩73:24

 

 パウロの手紙:
私は戦いを立派に走り抜き、
決められた道を走り通し、
信仰を守り抜きました。
今や義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、
かの日にそれを私に授けてくださるのです。Ⅱテモテ4~7~8

 

 ガラテヤ書2:16~21
 サムエル記上17:31~58(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句3/23;土)


 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちの心が苦しみ、苦みで満ち、
私たちのうちなる思いが突き刺されたとき、
私たちが愚かで、わきまえもなく、
この方の御前で獣のようなとき、
理性をなくして、気が狂ってしまっているようなときも、
絶えず私と共にいてくださり、
私たちの右の手をしっかりつかまえていてくださるのですね。

 

 天の神、主は、
御計らいに従って私をさとして導き、
後には栄光の内に私を天に移し、
受け入れてくださいます。

 ローマの市民権を持っていたパウロが、
今度のローマ皇帝による裁判では、
いよいよ、打ち首の判決を受けることが予想され、
「私は今や注ぎの供え物となります。
私は勇敢に戦い、
走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。
かの日には、
正しい審判者である主が、
それを私に授けてくださるのです」(新改訳)と言っているように。


 私たち、律法の行いによっては義と認められない者ですが
キリスト・イエスの信において、
そのイエスへの信頼において義と認めていただけるのだそうですから。

 〔父である神〕は、
「的外れ」の責任を問われるべき、
私自身である、私の〔生まれたときからの私〕という霊を
キリストとともに十字架につけられたもの、
処刑されたものとしてくださったのですね。

 私たちが、
神に生きるために、
律法によって律法に死に、
もはや私が生きるのではなく、
キリストが私のうちに生きてくださるのですから(ガラテヤ2:16~20)。

 

 イエス・キリストの御名によって来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者のうちに住んで、
〔父である神〕の御思いを私たちのうちに置き、
書きしるしてくださって、
受け入れる者が、
エスと同じように
〔父である神〕の御思いによって生きるようにしてくださるのですから。

 

 天の神、主は、
私たちの右の手を取って、御心のとおりに導き、
この道を走り抜かせてくださり、
天の御国に受け入れ、
義の栄冠を与えようとしていてくださるのだそうですから。

 

 イスラエルの兵士みんなが恐れ、震えあがっている
ペリシテ軍の代表戦士巨人ゴリアテの前に、
神に対する信頼だけで、
羊を飼う杖と石投げを持って出て行った
若者のダビデとともにいてくださったように(Ⅰサムエル17:31~58)。

今日も。

 

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