風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神の、「はい」が、そのまま「はい」、事実となって

必ず、
お前はわたしを畏れ、
戒めを受け入れる。
ゼファニア書3:7

 

 悔い改めよ。
天の国は近づいた。
マタイ4:17

 マタイ5:33~37
 マタイ9:18~26(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句8/14;水)

 

 私たちは、
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方から、
「ああ。反逆と汚れ(けがれ)に満ちた暴力の町。
呼びかけを聞こうともせず、
懲らしめを受け入れようともせず、
主、「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方に信頼せず、
神に近づこうともしない」(ゼパニア3:1~2新改訳)
と嘆かれる者なのですね。

 

 けれども、天の神、主は、
私たちが、ご自身を畏れ、戒め、懲らしめを受け入れるように、
と願っていてくださるのだそうです。

 

 それでイエスは言われるのですね。
方向転換して、神に向き直るようにと。

 

 イエスによって、「天の国」、神の統治が近づいたから、と。

 

 だから、神を引き合いに出して
自分の主張を無理にでも通そうとしないで、
事実を事実のままに、
「はい」は「はい」、
「いいえ」は「いいえ」とだけ言うように、
とおっしゃるのですね(マタイ5:33~37)。

 

 それで、イエスは、
あの会堂管理者の
「私の娘がいま死にました。
でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。
そうすれば娘は生き返ります」との願いを、
その「はい」を、そのままに「はい」、事実として
その少女を生き返らせてやり、

 

 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考え、
エスの着物の裾のふさにさわった、
12年間の間、長血を患っていた女性は、
その心の事実、「はい」の通りにいやされたのですね(マタイ9:18~26)。

 

 私たちも、「はい」は「はい」とし、
「いいえ」は「いいえ」と、
単一な心にしながら、
天の神、主の御業の中へと。
今日も。

 

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