風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

どんな財宝にもまさる、喜びの道を

主よ、
私はどのような財宝よりも、
あなたの定めに従う道を喜びとします。
詩119:14
 

 だから、
天の国のことを学んだ学者は皆、
自分の倉から新しいものと古いものを取り出す
一家の主人に似ている。
マタイ13:52
 

 申命記24:(10~13)17~22
 マタイ16:1~12(通読箇所)
   (ローズンゲン日々聖句9/18;水)

 

 天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方の
定め、さとしの道、それに表された御思いが
喜び、楽しみだというのですね。
この詩人は。

どんな財宝よりも。

 

 一家の主人が、
自分の倉の中にある新しいものと古びてしまったものとを見分けて、
新しいものを自由に取り出すように、
新しい契約の生き方と旧い契約の生き方を見分けて。

 

 旧い契約では、
自分の力で、
石の板や紙に書かれた文字のとおりに生きるようにと、
文字に仕えていました(Ⅱコリント3:6)。

 

 新しい契約(エレミヤ31:31~34)では、
【父である神】が、私たちに、
新しい霊、「わたしの霊」、【聖である霊】と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって、
神の律法、神のおきて、神の定め、ご自身の御思いを
私たちの心に置き、書きしるしてくださり、
新しい心にしてくださる(エゼキエル36:25~28)、というのですから。

 

 

 「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊は、
隣人(となりびと)に何かを貸すときには、
自分でその家に入ってめぼしい担保を取り、
貸したものを返すまでは
その担保を確保しておこうとするのですが、
【父である神】は、貸す人は外にいて、
借りる人が担保をもって外にいる貸す人のところに持ってくるように、財宝

自分の上着を担保にした場合、
日没までにはそれを返し、
その人が自分の上着を着て寝ることができるように、と。

 

 

 私たちは、イネや麦の刈り入れをするとき、
落ち穂を一本も残さず、自分の者として確保しようとするもの、

オリーブやぶどうの実も、一粒も残さず取り入れたいものですが、
【父である神】は、束を畑に置き忘れたときは、取りに戻らず、
また、オリーブやぶどうの実も、全部取ってしまわず、
それを、在留異国人やみなしご、やもめのものとしてほしい(申命記24:10~13、17~22)、
と思っておられるのだそうです。

 

 

 イエスは、また、時のしるしを見分け、
「パリサイ人やサドカイ人のパン種」、
旧い契約の教えに注意するように、と言われるのですね。

 

 パン種は、粉全体をふくらませるので、
旧い契約のパン種と新しい契約のパン種を
混ぜ合わせて使うことはできないようですから。

 

 私たちにも、
【聖である霊】と呼ばれる方が心に置いてくださる
【父である神】の御思いについて行く道が、
財宝にもまさる喜びとなって。
今日も。

 

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