風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神を侮り、背く思いを、イエスに受け取ってもらいながら

なぜ主の言葉を侮り、
私の意に背くことをしたのか。
サムエル記下12:9

 

 すべての重荷や
絡みつく罪をかなぐり捨てて、
自分に定められている競争を
忍耐強く走り抜こうではありませんか。
信仰の創始者また完成者である
エスを見つめながら。
ヘブル書12:1~2
 

 マラキ書3:13~18
 Ⅰコリント9:1~12(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句2/14;金)


 天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)を侮り、
その御思いを軽んじる思いは、
私たち自身である、〔生まれたときからの私〕という霊から
噴き出してくるのですね。

 

 それを、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
死んでしまっている者から出て来た思いであると認めて、
エスの御前にかなぐり捨て、イエスに受け取ってもらいながら
走り続けるのだそうです。
この、地上での人生という馳せ場を。


 天の神、【主】から、
「われわれのかたちとして、
われわれの似姿に」(創世記1:26)と願われ、
この方と思いを一つにする者として造られていながら、
自分で善悪を決める者になろうとして、
「神の一人のようになり、
善悪を知る」ようになって(創世記3:5、22)、
「的外れ」になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊は、
神を侮り、思うのですね。
 

 「神に仕えるのは無駄だ。
神の戒めを守っても、
万軍の主の前で悲しんで歩いても
何の得になろう。
今、私たちは
高ぶる者を幸せ者と言おう。
悪を行っても栄え、
神を試みても罰を免れる」と。


 けれども、天の神、万軍の【主】は言われるのですね。
「神を恐れる者たち、彼らは、わたしのものとなる。
わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、
わたしは彼らをあわれむ。
あなたがたは再び、正しい人と悪しき者、
神に仕える者と仕えない者の違いを
見るようになる」(マラキ3:13~18新改訳)、と。
 

 「脱穀している牛に口籠(くつこ)をはめてはならない」
と命じられた主は、
耕す者が、収穫の望みをもって耕し、
脱穀する者が
分配に受ける望みをもって仕事をするように(Ⅰコリント9:9~10)、
私たちも、その、
神が事を行われる日を待ち望みながら歩むのですね。
 

 神を侮り、背く思いをイエスの御前にかなぐり捨てながら。

今日も。

 

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