風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

一人の人の死によって、全ての人が、義によって生きられるようにして

いかに幸いなことか、
主を畏れる人、
主の戒めを深く愛する人は。
詩112:1

主は自らその身に
私たちの罪を担ってくださいました。
私たちが、罪に対して死んで、
義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、
あなたがたはいやされました。
Ⅰペㇳロ2:24~25

 

 ヨハネ19:16~30
 Ⅱコリント5:(14b~18)19~21
 マルコ15:24~41(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/10;金、受難日)


 幸いなのですね。
天の神、【主】、
「『わたしはある(I am)』という者」
と名乗られる方(出エジプト3:14)を畏れ敬う人、
この方のおっしゃることを深く愛し、喜ぶその人は。


 【父である神】の御思いを受け、
そのご計画の時が満ちて、
【御子である神】は、預言されていた言葉のとおりに、
「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデ王の家系である処女マリアの胎を通し、
ダビデの町ベツレヘムで「人の子」として生まれられました。

 

 このイエスは、およそ33歳のころ、
みずから、ご自分の自由意思で、自分から進んで
その身に私たちの罪、「的外れ」の責任を担って
十字架刑の処刑を受け、死んでくださいました。

 

 私たちが、罪、「的外れ」の生き方に対して死んだものとされ、義、造り主である神との正しい、あるべき関係に生きるようになるために。

 

 その、お受けになった傷、打たれた傷のゆえに、
私たちがいやされるように、と。


 その日、
祭司長、律法学者、民の長老たちから先導された民衆に迫られ、

ローマ総督ピラトは、イエスに罪を認めなかったにも関わらず、
エスを十字架につけるために兵士たちに引き渡しました。

 

 それで、イエスは自分で、自分がつけられる十字架を負って
処刑場であるゴルゴダ(どくろの場所)へ出て行かれました。

 

 イエスを十字架につけ、その番をしていたローマ兵たちは、
役得として、イエスの衣を縫い目から4つに分けて
自分のものとしたのだそうです。
しかし、下着は、
上から全部一つに織った縫い目のないものだったので、
裂くことをしないで、誰も物になるか、くじを引いたのだそうです。

 

 このときからおよそ1000年ほど前に、ダビデ
「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」(詩篇22:18)と書いているとおりに。


 十字架の上に掲げられた、ピラトが書いた罪状書きには、
ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」としてあり、
ヘブル語、ラテン語ギリシャ語で書かれていたので、
道を行く多くの人がこれを読んだのだそうです。(ヨハネ19:16~30)

 

 その場所は、
ヨーロッパ大陸とアジア大陸、アフリカ大陸が交わる
世界のかなめの場所、
ユダヤの都のすぐ近くだったのだそうですから。


 イエスが十字架につけられたのは、
朝の9時ころだったようです。
祭司長たち、律法学者たちや通りすがりの人たちは、
十字架にかかっているイエスあざけって言ったのだそうです。
「他人は救ったが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。
それを見たら信じてやろう」、と。


 12時になったとき、闇が全地をおおい、午後3時まで続いた。
そして3時(過ぎ越しの小羊が屠られる時間)に、
エスは大声で叫ばれた。
「わが神、わが神、
どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と。

そして、イエスは、大声を上げて息を引き取られた。
すると、神殿の聖所と至聖所を隔てている幕が
上から下まで真っ二つに裂けた。(マルコ15:24~41より)


 【父である神】は、
このようにして、一人の人、イエスの死によって、
すべての人の、
「神の一人のようになり、善悪を知る」ようになって、
創造の目的から「的外れ」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を死んだものとしてくださり、

 

 死んで墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、
ご自分が確かに生きていることを見せ、
神の国のことを語ったのち、
天の、【父である神】の右の座に復帰されたイエスをとおして、
もう一人の助け主、
【聖である霊】と呼ばれる方を私たちに派遣してくださり、
この方によって、ご自身の御思いを私たちの心に置き、
私たちの心にご自身の御思いがあるようにしてくださいます。


 モーセによって結ばれた初めの契約に代えて、
新しい契約として。(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ヨハネ17::21~23)

 

 私たちが、もう、自分の
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いによって生きるのではなく、

古いものが過ぎ去った、新しく造られた者として、
自分のために死んでよみがえった方の御思いで生きるようにと。

 

 神の義、【父である神】との正しい、あるべき関係、
思いを一つにする関係で生きる者となってほしいと。(Ⅱコリント5:14~21より)
 

 神の仰せを愛し喜ぶ、幸いな人に。
今日も。

 

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