風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

言葉に言い尽くせないすばらしい喜びに心躍って

主にあって私の心は喜ぶ。サムエル記上2:1

 

あなたがたは、
キリストを見たことがないのに愛し、
今見なくても信じており、
言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに
満ちあふれています。
Ⅰペテロ1:8

 

 1コリント14:1~5、27~40
 Ⅱテモテ3:1~9(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/2;火)


 主にあって、
神の中で、神の御思いの中で、私たちは喜ぶのですね。

 

 子どもができない女であったのに、
その積もる思い、憂いのすべてを
神の御前に注ぎだし、神に聞いてもらって、
神によって男の子、預言者となるサムエルを与えてもらった
ハンナのように。
神の御業の中で。


 私たちも、神の約束の言葉によって、救いを得、
イエス・キリストを見たことはないけれど愛し、
今見てはいないけれど信頼し、
言葉に尽くせない、栄に満ちた喜びで心おどる者にしてくださると
神は言われるのですね。


 この方は、私たちが、愛を負い求め、
皆を愛し、皆に役立ち、皆の益になるために、
「御霊の賜物たまもの」、
エスを通して来てくださる【聖である霊】と呼ばれる方の
愛の働きの現れを与えてくださるのだそうです。、
 

 その中でも、特に、「預言よげん」を、

ご自身の愛の御思いを取り次ぐことを与えたい、と。

 

 「御霊の賜物たまもの」のうち、
異言いげん」としての現れ、
今まで知らなかった言葉で語ることは、
神に向かって奥義を語るので、
自分を神に近くし、自分を成長させます。

 

 それに対し、「預言よげん」は、
皆に対して神が語ろうと思われることを取り次ぐので、
集まっている人全体に神の御思いを伝え、
皆を成長させます。


 「集まり」の中での異言の用い方としては、
皆がいっせい祈っているときとかではなく、
祈祷会や愛餐会などで証しするときように、
立って、皆に向かって異言で語る
のであれば、

二人か三人が順番に語り、
一人の人は
それを解き明かす(異言の内容を伝える)ようにしなさい。
 

 解き明かす人がいなければ、
「集まり」の中で皆に向かって異言で語ることはしないで、
自分に対して、また、神に対して語るようにと。


 「預言」をする場合も、二人か三人が語り、
ほかの人はそれを吟味ぎんみする

 

(神から来ている言葉かどうかを確かめる)ようにと。

 

 また、誰かが預言をしている途中で、
席についている別の人に啓示(神からの示し)が与えられたら、
先に語っていた人は黙るように。

 

 【聖である霊】と呼ばれる方はすべての人に働かれ、
その人だけでなく、だれを通してでも預言されるのだから、と。
 

 神は、混乱の神ではなく、平和、調和を愛される方。

 

 だから、預言することを熱心に求め、
異言で語ることも禁じないように。
ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行うように、と言われるのですね。(Ⅰコリント14:1~5、27~40) 

 


 終わりの日には、困難な時代が来るのだそうです。
人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、
大言壮語たいげんそうごし、高ぶり、神を冒涜ぼうとくし、
両親に従わず、恩知らずで、けがれた者に、
また、情け知らずで、人と和解せず、
中傷し、自制できず、
粗野で、善を好まない者になり、
人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、
神よりも快楽を愛する者になり、
見かけは敬虔けいけんであっても、
敬虔の力を否定する者になるのだそうです。

 

 信じる者の集りの中、
聖霊の現れ、賜物の盛んな集りの中でも。

 

 だから、私たちに、
こういう人たちを避けさせ、
いよいよ、【聖である霊】と呼ばれる方の働きの現れである
愛を追い求め、
言葉に尽くせないすばらしい喜びに満たそう、と、
神は言われるのですね。
今日も。

 

 

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