風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

言葉だけではなく、力強い御業の事実によって

あなたは救いの盾を私に授け、
   右の御手で支えてくださる。詩編1836
 
 神の国は言葉ではなく
力にあるのです。Ⅰコリント420   
 
      (ローズンゲン日々の聖句6/23;木)
 
 詩編の作者は謳います。
「神、その道は完全。
主のみことばは純粋。
主はすべて彼に身を避ける者の盾。
 
まことに、主のほかにだれが神であろうか。
私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
戦いのために私の手を鍛え、
私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる」(詩篇183034)と。
 
 
 神の国のことは、人の思考の産物、単なる考え方や理論ではなく、力強い御業の現れなのだそうです。
 
 イエスは、「父である神」の御思いに従って、ガリラヤのカナでの婚礼で、ぶどう酒がなくなってしまったとき、母親の願いを受け入れ、水を最上のぶどう酒に変えて花婿が恥を受けることから救い(ヨハネ2:1~11)、
 
 ガリラヤのカペナウムの王室の役人の願いを受け入れて、死にかかっていた息子の病気をいやし(ヨハネ4:46~53)、
 エルサレムのベテスダの池の回廊で38年もの間、病で伏せっていた男に「床を取り上げて歩きなさい」と声をかけていやし(ヨハネ52~9)、ガリラヤ湖の向こう岸までついて来た多くの群衆を、そのまま帰らせたら途中で弱ってしまうとかわいそうだからと、少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人の人々に食べさせ、満腹にさせて帰らせ(ヨハネ6:1~13)、
 
 道の途中で出会われた生まれつきの盲人を「この人が盲目に生まれついたのは、この人の罪でも、その両親の罪のせいでもなく、神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃられて、その目を見えるようにされ(ヨハネ9:1~7)、多くの病人をいやし、悪霊に捕らわれている者を解放されたのだそうです。
 
 それで、イエスは、自分を石打ちの刑で殺そうとしている人たちに対して、「もしわたしが、私の父のみわざを行っていないのなら、私を信じないでいなさい。
しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい」(ヨハネ103738)と、言葉が信じられないのなら、事実として現れたわざによって信じなさいと言うことができた方なのですね。
 
神の国、神の御支配は、言葉の上だけのことではなく、力強い御業として、事実として現れるのだそうです。
 
 
 過ぎ越しの小羊として(出エジプト12213351)私たちのお身代りとなって十字架に架かって下さり、復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださるとき、この方は受け入れる者の心に、「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、一人一人は、「父である神」が思っておられるとおりの、それぞれ、ちがった働きをし、一人ひとり違っていながら、一つからだを構成する肢体として、調和し、お互いを認め合い、大切にし合い、いたわり合う思いが来るようになるのだそうです。
 
 もし、一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶようになるのだそうです(Ⅰコリント121926)。
 
古い、「生まれたときからの霊」という私自身からは出て来るはずのない、そのような思いが。
今日も。