風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「誠実」、「真実」と呼ばれる方が来られて

あなたの裁きが地に行われるとき、

  世界に住む人々は正しさを学ぶでしょう。イザヤ書26:9

 

 預言者ヨハネの言葉:

私は天が開かれているのを見た。

すると、見よ、白い馬が現れた。

それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、

正義をもって裁き、また戦われる。黙示録19:11

 

 ヘブル書13:1~9

 Ⅱコリント11:16~33

      (ローズンゲン日々の聖句11/9;水)

 

 私たちは、今の世がこのまま、何も変わらず、いつまでも続くかのように思っています。

けれども、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。

裁きを地に行うときが来ると。

 

 正義をもって裁かれるそのさばきによって、私たちは、自分が思っている正しさではなく、ほんとうの正しさ、人間のあるべき関係を知ることになるのだそうです。

 

 「御子である神」と呼ばれる方は、「女の子孫」として、処女マリヤの胎を通して、人の世に来られた時は、貧しい羊飼いたちのほかには誰にも気づかれない形で、ベツレヘムの家畜小屋で、人として生まれられました。

 

 しかし、やがて、来られるとき(おそらく3度目に)には、栄光に包まれ、白い馬に乗って、天にある軍勢を従えて来られるのだそうです。

正義をもって裁き、戦われるために。

そして、勝利をもって、(おそらく)千年の間、王としてこの世界を統治されるのですね(黙示録20:2~3)。

 

 イエスは言われました。

「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。

わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです」(ヨハネ12:26)と。

 

 それで、もし、私たちが、「生まれた時からの霊」という私自身を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだもの、処刑されたものと手続していただき、

墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、新しい霊のからだに復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださるもうひとりの助け主、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら(ヨハネ14:16~17)、

この方が、受け入れる者の心に、「父である神」が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~31)、

受け入れる者は、「父である神」が思っておられる思いを思う者、「父である神」と一つ心になり、「父」が思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)、御子イエスに仕える者にしていただけるのだそうです。

 

その、新しい生き方をしている者は、イエスがおられるところにいることになるのですね。千年王国と呼ばれる世界でも、新しい天、新しい地、新しい都が実現した時にも(黙示録21章、22章)。

 

 この出来事を受け入れる者は、この地上に永遠の都を求めるのではなく、後に来ようとしているこの都を目指して生きるようになるのだそうです。

 

「聖である霊」と呼ばれる方によって、兄弟愛、旅人をもてなし、牢につながれている人たち、苦しんでいる人たちを思いやる思い、結婚を尊ぶ思いを心に置いていただき、金銭を愛する心からも解放していただき、キリストのはずかしめを身に負い、絶えず、賛美のいけにえ、御名をたたえる賛美をささげる思いに満たされながら(ヘブル13:1~15)。

今日も。

 

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