風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

守り抜いて救おうと

私たちは皆、
 キリストの裁きの庭の前に 
  立たなければなりません。Ⅱコリント510
 
 主の言葉:
わたしはこの都を守り抜いて救う。
わたし自らのために。列王記下1934
 
 神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。
そこには、
「主はご自分の者たちを知っておられる」
   と刻まれています。Ⅱテモテ219
 
 マタイ253146
 詩編51
      (ローズンゲン日々の聖句11/13;Ⅱ日)
 
 神の御子キリストは、自分の行いでは神の義に達することができないことを知って救いを求める人に、ご自分の義を着せ、救うために、人間イエスとして、すべての人のそむきの罪の責任をとってご自身を十字架刑での処刑にするために来られたのだそうです。
 
 しかし、やがて、すべての人が、死んだ者も生きている者も、この神の御子キリストの前に出て裁きを受けるときが来るのだそうです。
そのとき、人はそれぞれ、自分の生きて来た生きざまを白日の下に広げられ、その責任を取ることになるのだそうです。
けれども、イエスによる、身代わりの処刑に合わせていただいている者は、処罰済みとして、イエスの義を着せていただくことになるのだそうです。
「主はご自分の者たちを知っていてくださり、守り抜いてくださる」のだそうですから。
 
 この望みに生きる者は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだ者とされた、私自身である「生まれたときからの私」という霊から心に来る思いによって生きることはしなくなり、復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」をお迎えし、この方が心に置いてくださる「父である神」が私に思っていてくださる御思いによって生きるようになるのだそうです。
 
 それで、これを受け取った人は、神が私を使ってしようと思っておられるわざに間に合うよう、自分自身を清めようとするようになるのだそうです。
若い時の情欲を避け、
きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求める心、
愚かで、無知な思弁を避け、争うよりも、むしろすべての人にやさしくし、
よく教え、よく忍び、反対する人たちを柔和な心で訓戒する思いが心に来るようになるのだそうです(Ⅱテモテ22026より)。
やぎとして退けられるはずの心の者が、羊の心に取り替えていただきながら(マタイ253146)。
この新しい週も。
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