風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

鹿が、谷川の流れを慕いあえぐように

神に、命の神に、私の魂は渇く。
いつ御前に出て、
神の御顔を仰ぐことができるのか。詩編423 
 
 “霊”の初穂をいただいている私たちも、
神の子とされること、
つまり、体の贖(あがな)われることを、
心の中でうめきながら待ち望んでいます。
私たちは、このような希望によって救われるのです。ロマ82324 
 コロサイ書3(5~7)8~11
 ルカ121321(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句3/2:木)
 
 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3522)、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る思いは、「お前の神はどこにいるのか。神なんかいないじゃあないか」(詩篇42310)、たとえ神がいたとしても「神は見ていない。何もしない神だ」というささやきなのですね。
 
 けれども、それが、本来のあるべき位置からずれた状態、〔的はずれ〕の状態であることを知った者は、神を知りたい、お言葉を聞きたいと、神に渇き、神を慕いあえぐのだそうです。
鹿が谷川の水を慕いあえぐように。
神の御前に出て、神の御顔を仰ぐその時を。
 
 私たち、自分の力、自分の努力で、この〔生まれたときからの私〕という霊を、天の神、主と一つ心にすることができませんでした。
 
 それで、〔父である神〕は、ご自身の側で、贖い(あがない、代価を払って買い戻すこと)の道を用意され、これを、恵みのプレゼントとして私たちに差し出し、受け取って欲しいと願っておられるのだそうです。
 
 〔父である神〕は、ご自分の御子である方を、人として人の世に送り、
この方の命を、私たちを買い戻す代価として支払って、私たちを贖う、買い戻す手続きを完了しておられるのだそうです(ヨハネ19:30)。
 
 人となられた御子である方、あのイエスを十字架刑で処刑して、私たちのそむき、的外れの責任を処罰済みとし、私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。
 
 そのうえで、墓に葬られ、三日目に墓から、新しい〔霊のからだ〕に復活し、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られた、あのイエスを通して、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、この方によって、受け入れる者をご自分の〔子〕 (養子)とし、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いをその心に置き、受け入れる者が、家族として、ご自身と同じ思いを思い、一つ心になって生きるようにと、手はずを整えていてくださるのだそうです。
 
 実に、被造物は、切実な思いで、この神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのだそうです。
その時、被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるのだそうですから(ロマ8:19~21)。
 
 〔父である神〕は、〔御霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、神の子の身分を与えられている者に、あのイエスと同じように、「復活のからだ」とか、「霊のからだ」とか呼ばれている新しいからだを着せてくださり、からだごと贖われるようにしてくださるのだそうです。
 
 その時を、私たちは、あのイエスがもう一度来られて、私たちがこの肉体を脱いで、新しい「霊のからだ」を着せていただけるその時(Ⅱコリント514)を、渇き、待ち望みながら生きるのですね。
 
 〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る、「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出て来る恥ずべきことば」を、死んだものから出て来た思いであるとして、投げ捨てながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る〔御父〕の御思いがはっきり現れ、具体的に実現するのを、渇き、慕いあえぎつつ。
今日も。
 
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