風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

人間の知恵によらず、神の力によって

見よ、

主の言葉を侮っていながら、

どんな知恵を持っているというのか。エレミヤ書8:9

 

 あなたがたが人の知恵によってではなく、

神の力によって信じるようになるためです。Ⅰコリント2:5

 

 使徒4:(1~3)8~21

 使徒9:19b~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句6/19;月)

 

 私たちの〔生まれた時からの私〕という霊は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっていて、自分の理性の判断のままに、「戦いに突入する馬のように、自分の走路を走り去る」(エレミヤ8:6)者、

主の言葉を侮るばかりで、造り主に帰り、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に聞こうとはしないのですね。

 

 それで、使徒パウロはコリントの人たちにイエスによる救いを宣べ伝えるとき、

人間のすぐれた言葉、説得力のある知恵の言葉を用いないで、

御霊と御力の現れによって、

聖書が示すとおりに、十字架につけられたイエス

墓に葬られ、聖書が示すとおりに、三日目によみがえられたイエスを伝えたのだそうです(Ⅰコリント15:3~4)。

 

それで、コリントの人たちの信仰は、人間の知恵に支えられず、神の力によって支えられるものとなったというのですね(Ⅰコリント2:1~5)。

 

 最初の頃、エルサレムで弟子たちの数が男だけで5千人ほどになった時も、

毎日、エルサレム神殿の美しの門で、礼拝に来る人たちに施しを乞うていた、

生まれた時から足がなえていて、40年余り歩くことができなかった男性が、

ペテロとヨハネにより、

イエス・キリストの名によって歩きなさい」との言葉によって歩き出し、

跳んだり跳ねたりしながら神を賛美している、

その神の力の現れによったのだそうです。

 

そして、このことがエルサレム中の人々の知るところであったので、反対者たちも二人を罰するすべがなかったのだそうです(使徒4:1~3、8~21)。

 

 使徒パウロも、迫害者サウロであったとき、

十字架にかけられ死んだはずのイエスが現れ、

自分の理性の判断によって、誰よりも熱心に、イエスの名を呼ぶ者たちを捕らえ、滅ぼしていた、

その自分の判断のほうが間違っていて、イエスの弟子たちが伝えていることが事実であることを知って、

今まで滅ぼそうとしていた復活したイエスを伝える者となり、大胆に語り出したので、反対者たちからいのちを狙われるようになったのだそうですが、

弟子たちの群れは、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地にわたり、築き上げられ、

平安を保ち、主をおそれかしこみ、聖霊に励まされて前進を続け、

弟子の数が増えて行ったのだそうです(使徒9:19b~31)。

 

 私たちも、自分の理性の善悪の判断を最善とし、戦場の馬のように突っ走るばかりの者ですが、

それも、〔父である神〕、〔御子イエス〕の御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いについて行き、

神の御力の現れ、御思いが実現するのを見ていきたいものですね。

今日も。

 

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