風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

真の愛は、思いを一つにしていきたくなるもの、なのだそうですから

祝福あれ。

主の御名によって来る人に。詩118:26

 

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。

この方によって、私たちが生きるようになるためです。

ここに、神の愛が私たちの内に示されました。Ⅰヨハネ4:9

 

 Ⅱコリント12:1~10

 フィリピ書2:19~30(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/21;金)

 

エスが、私たち、すべての人間のそむきの責任を負って十字架刑での処刑を受けられるため、最後のエルサレム入場をされたとき、ろばに、しかも、まだ人を乗せたことのないろばの子に乗って入場され、
多くの人たちが、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と叫んだのだそうです(マタイ21:9、マルコ11:9)。

 

しかし、これを聞いて、律法に熱心な人たちが、イエスに、
「先生。お弟子たちをしかってください」と言ったのだそうですが、
エスは、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます」と答えて(ルカ19:38~40)、
エスご自身が、自分がそういう者、「主の御名によって来た人」であることを認めておられたのだそうです。

 

〔父である神〕は、永遠の初めからともにおられた〔独り子である神〕を人間の世にお遣わしになり、
この方を処刑することで私たちの処刑が終わったものとみなし、
新しく、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者にお遣わし下さり、
この方によって受け入れる者の心に、ご自身が一人一人に思っておられる御思いを置き、
受け入れる者がご自身と思いを一つにしながら生きるようにしていてくださるのだそうです。

 

私たち一人一人を愛していてくださり、
私たち一人一人と思いを一つにし、心を一つにする関係になりたいのだそうですから。

 

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たちの「生まれた時からの私」という霊は、
自分が何かが出来たり、素晴らしい霊的な経験をしたりすると、
たちまち、自分を誇り、〔父である神〕との一つから外れ、それて行く者なのですね。

 

 自分が弱くされ、〔生まれた時からの私〕という私の霊はイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑されたものであることを思い出すとき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きは完全に現れてくださるのだそうです。

 

それで、私たちが弱いときにこそ、私たちは強くなれるのだそうです(Ⅱコリント12:1~10)。

 

 私たち、〔生まれた時からの私〕という霊は、自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない者ですが(ピリピ2:20~21)、

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とイエスをお迎えし、

エスがお遣わし下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

〔父である神〕、〔御子である神〕と同じ心にしていただけ、

新しく生きるようにしていただけるのだそうです。

今日も。

 

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