風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

自分の弱さ、駄目さ加減に思いっ切り泣く者を

私たちは皆、汚(けが)れた者となり、

正しい業もすべて汚れた着物のようになった。イザヤ書64:5

 

 主は振り向いてペトロを見つめられた。

ペトロは「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。

そして外に出て、激しく泣いた。ルカ22:61~62

 

 フィリピ書3:12~16

 フィリピ書3:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/22;土)

 

 イエスが「最後の晩餐」の席で、ペテロに、

「シモン、シモン(ペテロの本名。ペテロ〔岩の断片、石〕はイエスが付けたあだ名)、見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたとき、ペテロは言ったのだそうです。

「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」。

 

しかし、その夜、イエスが捕らえられ、大祭司の家で裁判にかけられているとき、庭までついて行ったペテロは、

女中から「この人も、イエスといっしょにいました」と言われ、

「あの人を知りません」と3度も打消し、

そのとき、鶏が鳴いたのだそうです。

 

振り向いてペテロを見つめられたイエスのまなざしは、

責めるでもなく、なじるでもなく、

とっても優しかったのでしょうね。

 

それで、ペテロは、外に出て、大地に身を投げ出して泣いたのでしょうね。

 

 

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者になった」(創世記3:5、22)私たちは、

汚(けが)れた着物のよう、なのだそうです。

どこまでも、天の神、主に対抗し、

「私は自分の努力でこれだけ善い人間になりました」と神の前に自分を誇ろうとする者のようです(ロマ7:18~25)。

 

 けれども、天の神、主は、そのような私たちを焼却処分にせず、

この時の、ペテロを見つめられたイエスのように、慈愛に満ちた目で見つめてくださり、

エスによって、的外れの責任を全部ご自身に受け取ってくださって、処罰済みとし、

 

受け入れる者にもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、

この方によってご自身の御思いを一人一人の心に置いてくださり、

私たちを、心が一新されたもの(ロマ12:2)としてくださるのだそうです。

 

 それで、私たちも、私たちの主、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさのゆえに、

人間的なものを頼みとしないで、

キリストを得、キリストの中にある者と認められ、

律法を自分の力で行うことによって得られる自分の義ではなく、

キリストを信じる信仰による義、

信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みで生きるようにしていただけるのだそうです。

 

キリストとその復活の力を知り、

またキリストの苦しみにあずかることも知って、

キリストの死と同じ状態になり、死者の中からの復活に達するよう、

後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、

目標を目指して一心に走るのだそうです(ピリピ3:1~14)。

 

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。

今日も。

 

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