風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

名前を呼ばれて、羊飼いについて行く羊のように。トコトコと。

恐れるな、わたしはあなたを贖(あがな)う。

あなたはわたしのもの。

わたしはあなたの名を呼ぶ。イザヤ書43:1(7/23の週の聖句)

 

 驕(おご)り高ぶるな、高ぶって語るな。

主は何事も知っておられる神、

人の行いが正されずに済むであろうか。サムエル記上2:3

 

 わたしたちは、言葉や口先だけでなく、

行いをもって誠実に愛し合おう。Ⅰヨハネ3:18

 

 マタイ28:16~20

 詩26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句7/23;Ⅳ日)

 

私たちは、アダムの子孫として、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれて造られていながら、
その、天の神、主との思いを一つにしていく場に留まることをせず、
もっとすばらしいものになろうとして、
造り主である天の神、主に対抗して、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっている者です。
〔的外れ〕のもの、ずれてしまったものとして焼却処分にされても仕方のないものです。

 けれども、天の神、主、わたしたちを造り出した方は仰っておられるのだそうです。
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのものだ。
わたしの目には、あなたは高価で尊い
私はあなたを愛している」(イザヤ43:1、4新改訳)と。

 

 

 私たちの、私たち自身である〔生まれた時からの私〕という霊は、自分を「神のひとりのような者、善悪を知る者」として驕り高ぶる者、横柄は思いを持つ者なのですね。
自分の力でそれを正そうとしても、少しできたからと言って、その出来た自分をまた誇り、高ぶっていく者(ロマ7:14~25)。

神である主はそれをよくご存じなのですね。

 

 

 それで、〔御子である神〕が、アダムのそむきの性質を受け継がない〔女の子孫〕(創世記3:15)として、人の世に来て下さり、

ご自身を贖い代金として差し出し、十字架刑での処刑を受けてご自身のいのちで支払い、私たちを買い戻してくださった。

だから、「あなたはわたしのものだ」と仰る。

 

 

 十字架刑での処刑を受けられ、死んで墓に葬られ、

三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しいたい体によみがえられ、

40日に渡って何度も弟子たちに現れて、神の国のことを語ったのち、

弟子たちのみている前で、オリーブ山から天の父である神の右の座に帰られたイエス

 

そのイエスが、神の御子の座にあって、今度は、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 

 この方が、受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、受け入れる者は〔父である神〕が思っておられる御思いを持つ者にしていただけるのだそうです。

 

それで、私たちの心にも、〔父である神〕の愛の御思いが来て、

口先だけの、言葉だけの愛でなく、

〔父である神〕の御思いを行動していく者にもしていただけるのだそうです。

名前を呼ばれて、トコトコと羊飼いについて行く羊のように(ヨハネ10:3~4)。

 

世の終わりまで(マタイ28:20)、

いつも、いつまでも(ヨハネ14:16)

私たちと一緒にいてくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。

 

数々の集まりの中で、主をほめたたえながら(詩篇26:12)。

この新しい週も。

 

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