風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

心に喜びを抱きながら、主を求めて

光の子として歩みなさい。
光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。エフェソ書5:8~9(8/6の週の聖句)


 主を求める人よ、

心に喜びを抱きなさい。詩105:3

 週の初めの日、
私たちがパンを裂くために集まっていると、
パウロは人々に話をした。
使徒20:7

 マタイ5:13~16
 詩11(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句8/6;Ⅰ日)


 私たち、以前は暗やみの中を歩む者でした。
天の神、主と関係を持たず、
天の神、主に思いを隠して、自分の中だけでことを決めていく、暗やみの者でした。

 しかし、イエスをキリスト(神の子である救い主)と認め、
自分主として受け入れて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方が言いようもないうめきをもって、私たちを〔父である神〕に執り成してくださることによって(ロマ8:26、27)、
私たちの思いが神の内にあり、神に知られ、
また、この方が、〔父である神〕の私たち一人一人に思っておられる御思いを、それぞれの心に置いてくださるので、この部分において、〔父である神〕の御思いが私たちのうちに来て、私たちの知るところとなり、
互いに一つ思いを持つ明るい関係、光の関係にしていただけるのだそうですから。

それで、イエスを主とした者は、暗やみで思っていた、神に喜ばれない思い、心の動きを、〔父である神〕の御前に差し出し、見ていただき、知っていただいて、明るみに引き出された出来事、光の出来事にしていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いについて行く者にしていただき、
〔父である神〕から来る、あらゆる善意と正義と真実とをいただいていく者にしていただけるのだそうです。

 

このように、主の御思いを求める者は、心に喜びが来るのだそうですね。
それで、週の初めの日、
エスが私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださり、
三日目の日曜日の朝、死者の中から新しいからだに復活された、
私たちの贖(あがな)いが成ったその日、
これを求める人たちは、聖餐式によって、イエスの裂かれたからだ、流された血を覚えながら、
食べたパン、飲んだぶどう酒が食べた者のからだと一つになるように(ヨハネ6:48~63)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方により、私たちの心が、イエスが言う「わたしたち」、〔父である神〕、〔御子である神〕と一つにしていただける(ヨハネ17:21~23)喜びで満たされ、聖書を通しての神の語りかけを聞いていくのだそうです。

 

このように、神に心の思いのすべてを見ていただき、知っていただく、明るい関係、光の関係の中で、神と思いを一つにしながら生活する者は、その生き方が、燭台の上のあかりのように周りの人を照らし、
周りの人が、〔父である神〕をあがめるようになるのだそうです(マタイ5:13~16)。
この生き方を見て、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の御思いを求め、
御顔を仰ぎ見る人に(詩篇11:7)。
この新しい週も。

 

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