風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「あなたの顔をこちらに向けておくれ」と仰る方が

わたしは、わたしの名を呼ばない民にも、
わたしはここにいる、ここにいると言った。イザヤ書65:1

 僕が、「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言った。
「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、
この家いっぱいにしてくれ。」
ルカ14:22~23

 ルカ6:27~35
 使徒21:15~26(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句8/8;火)

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
自分を求めようとしない人々にも、「わたしはここにいる、ここにいる」と、
自分のほうに向きなおってほしいと呼びかけ続けておられる方なのだそうです。

 

それはちょうど、ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いたよう、なのだそうです。
すっかり準備が出来、時間になったのでたので、招いておいた人々に使いを送り、
「さあ、おいでください。もうすっかり用意が出来ましたから」と言わせたのだそうです。

 

ところが、招かれていた人たちはみな、仕事や結婚を理由に、同じように断り始めたのだそうです。
おこった主人は、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者をここに連れて来なさい」としもべに言いつけ、
しもべが「ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。
でも、まだ席があります」と言うと、主人は言ったのだそうです。
「街道や垣根のところに出て行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」(ルカ14:15~23新改訳)と。

 そして、今は、このたとえの話しのように、誰にでも、神の国の宴会に来るようにとの招きがなされているとき、なのだそうです。
 町の大通りや路地、街道や垣根のところから普段着で宴会に行ったからと言って、恥をかくことはないのだそうです。
宴会に行くと、宴会にふさわしい服装が用意されていて、それを与えていただけるのだそうですから(マタイ22:11)。


敵を愛し、自分を憎む者に善を行い、
自分を呪う者を祝福し、自分を侮辱する者のために執り成し祈り、
片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けてやり
上着を奪い取る者には、下着も拒まず、
すべて求める者には与え、奪い取る者からは取り戻さず、
自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにする、
いと高き方、天の神、主のあわれみ深い心が私たちの心にも来るようにもしていただけて(ルカ6:27~35)、いと高き方の子どもにふさわしい品性を与えていただけるのだそうですから。

今日も。

 

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