風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

互いに安否を問い合い、補い合う思いが心に来て

エッサイはダビデに言った。

「兄さんたちの安否を確かめ、

そのしるしをもらってきなさい。」サムエル記上17:18

 

 テトスは同志であり協力する者です。

これらの(他の二人の)兄弟は諸教会の使者でキリストの栄光となっています。
だからあなたがたの愛の証しと
あなた方の事で私達が抱く誇りの証しとを
諸教会の前で彼らに見せて下さい。Ⅱコリント8:23~24

 哀歌5:1~22

 使徒28:1~16(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/25;金)

 ペリシテ人が戦いのために軍隊を招集し、彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いたのだそうです。
それで、サウル王とイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをしたのですね。

 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人、エッサイの8人いる息子の末っ子で、父親の羊を飼っていました。
エッサイの上の息子たち3人は、サウルに従って戦いに出ていたのだそうです。

それで、父親のエッサイがダビデに、戦場に行って、兄さんたちの安否を確かめて来るよう、言いつけたのですね。

 パウロが、コリントの教会にこの手紙を書いた当時、エルサレムに残っている弟子たちは、飢饉や政情不安、迫害のため、貧しい人たちが多かったようです。
それで、パウロがイエスによる救いを伝えたアジア(今のトルコ)や、マケドニアギリシャの教会では、エルサレムの貧しい弟子たちのために献金を届けようとしていたのだそうです。
パウロは、この献金についても、だれからも非難されることがないよう、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大であるようにと、
パウロの弟子であるテトスのほかに、諸教会によく知られている二人の兄弟を同行させようとしたようです。

 この献金については、コリントの教会の人たちが、
「昨年から、他に先んじて願い、行っているもの」だったようです。

 そして、「今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになり、こうして平等になるのです。
『多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった』(出エジプト16:18)と書いてあるとおりです」とパウロは言うのですね(Ⅱコリント8:1~15)。

 

 このように、主を神とする人々、主の嗣業(相続財産)としていただいた人々同志は、神の愛の御思いが心に来て、互いに安否を問い合い、愛し合うのだそうです。

 

 たとい、その人が、その人の犯した罪によって神に打たれているとしても、
神は極みまでその人を怒られ、退けてしまわれる方ではなく、
ご自分のもとに帰って来るようにと呼びかけ続けておられるのだそうですから(哀歌5:1~22)。

 

 十字架刑での処刑を受けられ、死んでよみがえられ、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスがお遣わし下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心にも、この〔父である神〕の熱い御思い、互いを思いやる思いを置いてくださるのだそうです。
今日も。

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