風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

主のものとしていただき、新しい生き方を

町に災いが起こったなら、
それは主がなされたことではないか。
アモス書3:6

 私たちは、生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のものです。
ロマ書14:8

 創世記16:6b~14
 ルカ14:1~6(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/30;土)

 預言者アモスは言うのですね。
イスラエルの子らよ。
主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方があなたがた、
すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。

 わたしは地上のすべての部族の中から、あなたがただけを選び出した。
それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。
  ~~
まことに、神である主は、そのはかりごとをご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは何事もなさらない。
獅子がほえる。だれが恐れないだろう。
神である主が語られる。
だれが預言しないでいられよう(アモス3:1~8新改訳)。


 使徒パウロは言います。
(イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
〔生まれた時からの私〕である霊を処刑されたもの、死んだものとしていただき、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いを自分の思いとして、
〔父である神〕と思いを一つにして生きるようになった)私たちの中で、
だれひとりとして、自分のために生きている者はなく、
また自分のために死ぬ者もありません。
もし生きるなら、主のために生き、
もし死ぬなら、主のために死ぬのです。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです(ロマ14:7~8)と。


 今から4000年ほど前のこと、アブラハムの妻サライの女奴隷であったエジプト人ハガルは、
サライに子どもが生まれないため、女主人サライによってアブラハムの妻とされたのだそうです。
そして、アブラハムの子を宿したので、子を産まない女主人を見下げるようになったため、
サライからいじめられ、サライのもとから逃げ出したのだそうです。
 主の使いが、荒野の泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで、彼女を見つけ、
サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と尋ねたのだそうです。
そして言ったのだそうです。
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。
そして、彼女のもとで身を低くしなさい。
あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほどになる。
見よ。あなたはみごもって、男の子を産もうとしている。
その子をイシュマエル(神は聞かれる)と名づけなさい。
主があなたの苦しみを聞き入れられたから。
彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。
彼はすべての兄弟に敵対して住もう」(創世記16:1~12)と。

 

 このイシュマエルの子孫がアラブ人であり、
マホメットも自分をイシュマエルの子孫としていて、
エジプトのサダト大統領は、イスラエルとの和解交渉の時、
アブラハムの子イサクの子孫であるあなたがたと、
アブラハムの子イシュマエルの子孫である私たちが」と、格調高い演説をしたのだそうです。


 天の神、主は、ソドムとゴモラをさばくため、出て行かれるとき、考えられたのだそうです。
「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(創世記18:17)と。

 天の神、主は、私たちにも、ご自身がこれからしようと思われることを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、私たちの心にその思いを置いてくださるのだそうです。
私たちが、神のものとして、
ご自身を愛する愛によって、
自由意思で、自発的に、自分から進んで、一つ心になるようにと願って。
今日も。

 

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