風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私を助けて下さる方によって

見よ、主なる神が助けてくださる。
誰が私を罪に定め得よう。
イザヤ書50:9

 私たちの主イエス・キリストによって、
私たちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
ロマ書5:11

 フィリピ書1:19~26
 ルカ15:1~7(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/5;木)

 イザヤは書きしるしています。

主はこう仰せられる。

「あなたがたの母親の離婚状は、どこにあるのか。

わたしが彼女を追い出したというのなら。

あるいは、その債権者はだれなのか。

わたしがあなたがたを売ったというのなら。
見よ。あなたがたは、自分の咎のために売られ、

あなたがたのそむきの罪のために、あなたがたの母親は追い出されたのだ。

なぜ、わたしが来たとき、だれもおらず、

わたしが呼んだのに、だれも答えなかったのか。

わたしの手が短くて贖(あがな)うことができないのか。

わたしには救い出す力がないと言うのか。

 

 神である主は、わたしに弟子の舌を与え、

疲れた者をことばで励ますことを教え、

朝ごとに、私を呼びさまし、

わたしの耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

神である主は、私の耳を開かれた。

私は逆らわず、うしろに退きもせず、

打つ者に私の背中をまかせ、

ひげを抜く者に私の頬をまかせ、

侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

 

 しかし、神である主は、私を助ける。

それゆえ、私は、侮辱されなかった。

それゆえ、私は顔を火打石のようにし、

恥を見てはならないと知った。

私を義とする方が近くにおられる。

だれが私と争うのか。

さあ、さばきの座に共に立とう。

どんな者が、私を訴えるのか。

私のところに出て来い。

見よ。神である主が、私を助ける。

だれが私を罪に定めるのか。

見よ。彼らはみな、衣のように古び、

しみが彼らを食い尽くす(イザヤ50:1~9新改訳)、と。

 

 

 使徒パウロは言います。

私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。

情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、

キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 

 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、

神によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たちが、御子(イエス)の死によって神と和解させられたのなら、

和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

そればかりでなく、

私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、

私たちは神を大いに喜んでいるのです(ロマ5:6~11新改訳)、と。

 

 

 さらに、パウロは言います。

私の切なる祈りと願いは、

どんな場合も恥じることなく、いつもののように今も大胆に語って、

生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。

 

 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。

しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、

私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、

どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。

 

 私は、その二つの者の間に板挟みとなっています。

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。

実はそのほうが、はるかにまさっています。

しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

私は、あなたがたの信仰の進歩と喜びのために、

私は、生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。

そうなれば、私はもう一度あなたがたのところに行けるので、

私のことに関するあなたがたの誇りは、キリスト・イエスにあって増し加わるでしょう(ピリピ1:20~26)、と。

 

 

 イエスの話しを聞こうとして、

取税人(支配者ローマのために税金を取り立てる役を買って出た人)、罪びとたちがみな、

みもとに近寄って来たのだそうです。

 

 すると、パリサイ人(自分たちは神の律法を守る努力に熱心であるとして、一般の人たちから分離していると自負しているグループ)、律法学者たは、つぶやいて言ったのだそうです。

「この人(イエス)は、罪びとたちを受け入れて、食事までいっしょにする」

(この人たちは、取税人や罪びとと交流すると汚れるとして、挨拶もしなかったのだそうですから)、と。

 そこでイエスは、彼らにこのような話をされたのだそうです。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、

そのうちの1匹をなくしたら、

その人は99匹を野原に残して、

いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、

友だちや近所の人たちを呼び集め、

『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 

 あなたがたに言いますが、それと同じように、

ひとりの罪人が悔い改める(神の方に向き変って、帰って来る)なら、

悔い改める必要のない99人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:1~7)。

 


 天の神、主は、私たちの身代わりになって十字架刑での処刑を受けてくださったイエスによって、私たちと和解してくださり、

私たちを罪に定めようとする誰からも(自分自身からも)、私たちを助けてくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

神と和解した者の新しい生き方を、

天の神、主と、思いを一つにし、心を一つにして生きる生き方を生きさせてくださるのだそうですから。

今日も。

 

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