風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

復活されたイエスが、岸に立っておられ、

 朝にはどうか、聞かせてください、
あなたの慈しみについて。
私はあなたに依り頼みます。
詩143:8

 弟子たちは、舟に乗り込んだ。
しかし、その夜は何もとれなかった。
既に夜が明けたころ、
エスが岸に立っておられた。
ヨハネ21:3~4

 黙示録2:8~11
 ルカ15:8~10(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/6;金)

 ダビデはうたいます。

主よ。私の祈りを聞き、

私の願いに耳を傾けてください。

あなたの真実と義によって、私に答えてください。

あなたのしもべをさばきにかけないでください。

生ける者はだれひとり、

あなたの前に義と認められないからです。

敵は私のたましいを追いつめ、

私のいのちを地に打ち砕き、

長く死んでいる者のように、

私を暗いところに住まわせたからです。

それゆえ、私のたましいは私のうちで衰え果て、

私の心は私のうちでこわばりました。

私は昔の日々を思い出し、

あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、

あなたの御手のわざを静かに考えています。

あなたに向かって、私は手を差し伸べ、

私のたましいは、かわききった地のように

あなたを慕います。

 

主よ。早く私に答えてください。

私の霊は滅びてしまいます。

どうか、御顔を私に隠さないでください。

私が穴に下る者と等しくならないために。

朝にあなたの恵みを聞かせてください。

私はあなたに信頼していますから。

私に行くべき道を知らせてください。

私のたましいはあなたを仰いでいますから。

主よ。私を敵から救い出してください。

私はあなたの中に、身を隠していますから。

 

あなたのみこころを行うことを教えてください。

あなたこそ私の神であられますから。

あなたのいつくしみ深い霊が、

平らな地に私を導いてくださるように。

主よ。あなたの御名のゆえに、私を生かし、

あなたの義によって私のたましいを苦しみから連れ出してください。

あなたの恵みによって、私の敵を滅ぼし、

私のたましいに敵対するすべての者を

消し去ってください。

私はあなたのしもべですから(詩篇143:1~12新改訳)、と。


 イエスは、私たちが創造の目的から「的外れ」になってしまっている責任を、

私たちに代わって負ってくださり、

十字架刑での処刑を受けてくださいました。
そして、近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に納められたのだそうです。

しかし、三日目、日曜日の早朝、死者の中から新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れてくださったのだそうです。

 シモン・ペテロ、デドモ(双子)と呼ばれたトマス、

ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子ヤコブヨハネ、ほかに二人の弟子がいっしょにいた時、

ペテロが、「私は漁に行く」と言ったので、彼らもいっしょに出掛けたのだそうです。

しかし、その夜は何も取れなかったのだそうです。
世が明けそめたとき、(復活された)イエスが岸辺に立たれ、彼らに言われたのだそうです。
「子どもたちよ。食べる物がありませんね」と。

そして、「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言われたので、
弟子たちが網をおろすと、おびただしい魚のため、網を引き揚げることができず、
網を引いて陸地まで帰ったのだそうです。



 ヨハネの黙示録2:8では、イエスのことを
「初めであり、終わりである方。
死んで、また生きた方が言われる」と記しています。
「勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることなない」(2:11)と。



 イエスは言われます。

「女の人が銀貨10枚を持っていて、
もしその1枚をなくしたら、
あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。
見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、
『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んで下さい』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、
ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」(ルカ15:8~10)、と。


 朝には、天の神、主の慈しみの言葉に耳を傾け、
「神のひとりのようになろう」として、「善悪を知る者」になっている、
〔生まれた時からの私〕という霊の善し悪しの判断で動いているところから、
方向転換をして、
神の慈しみによって、
その、〔生まれた時からの私〕という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて
死んだものとしていただき、
死者の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、

弟子たちが、イエスの言葉のとおりに網をおろしてみたように、
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の慈しみの御思いによって生きるなら、
天の御使いたちに、大きな喜びがわき起こるのだそうですね。
今日も。

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