風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

驚くべき御業を、私たちのために

彼らは、海に船を出し、大海を渡って商う者となった。
彼らは深い淵で主の御業を、驚くべき御業を見た。
主に感謝せよ。
主は慈しみ深く、
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
詩107:23、24、31

 実際、神は
私たち一人一人から遠く離れてはおられません。
使徒7:27

 ルカ7:1~10
 ルカ16:19~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/11;水)

 

詩篇の作者はうたいます。
 船に乗って海に出る者、大海で商いをする者、

彼らは主のみわざを見、

深い海でその奇しいわざを見た。

主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。

彼らは天に上り、深みに下り、

そのたましいはみじめにも、溶け去った。

彼らは酔った人のようによろめき、

ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、

主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。

そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
彼らは、主の恵みと、

人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ(詩篇107:23~31新改訳)、と。


使徒パウロは、アテネのアレオパゴスでエピクロス派やストア派の哲学者たちに語ったのだそうです。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、
手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、
人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今は、どこででもすべての人に悔い改め(方向転換)を命じておられます。

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(イエス)により、
義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方(イエス)を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:16~31)、と。

 

 

 イエスが、ガリラヤのカペナウムの町に入られたとき、
ローマ軍の百人隊長が、イエスのもとにユダヤ人の長老たちを送り、
病気で死にかけている自分のしもべを助けに来て下さるよう、お願いしたのだそうです。

 それで、イエスは彼らといっしょに行かれたのだそうですが、
この百人隊長は、友人たちを使いに送って、イエスに伝えたのだそうです。
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、(異邦人の)私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にあるものですが、
私の下にも兵士たちがいまして、
そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」、と。

 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来た群衆(ユダヤ人)に
「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言われ、
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていたのだそうです(ルカ7:1~10)。

 

 

 別のとき、イエスはこういう話をされたのだそうです。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
金持の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。

しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。
『父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。
私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。
おまえは生きている間、良い者を受け、
ラザロは、生きている間、悪い物を受けていました。
しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。
ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。』

 

 彼は言った。
『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、
よく言い聞かせてください。』

 

 しかしアブラハムは言った。
『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』


 彼は言った。
『いいえ、父アブラハム
もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、
彼らは悔い改めるに違いありません。』

 

 アブラハムは彼に言った。
『もしモーセを預言者との教えに耳を傾けないのなら、

たといだれかが死人の中から生き返っても、
彼らは、聞き入れはしない。』」(ルカ16:19~31新改訳)


 大海の嵐も、死にそうな病も、この方の言葉には従うのに、
ただ、私たち人間だけが、この方を無視し、
自分の理性による善悪の判断によって、自分の思うままをやっているのですね。

 

 それは、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「父よ。あなたがわたし(イエス)におられ、わたし(イエス)があなた(父である神)にいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
私たちが一つであるように、彼らも一つであるため」(ヨハネ17:21~22)という、創造の目的からズレている、的外れになっている状態なのだそうです。

 

 今は、その、嵐も沈めるお方が私たちに近くいてくださって、
エスによって、「和解しようよ。帰って来ておくれ」と呼びかけていてくださるのだそうです。
「思いを一つにし、心をひとつにする関係になろうよ」と。
今日も。

 

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