風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

御言葉はごく近くに、口に、心に

御言葉はあなたのごく近くにあり、
あなたの口と心にあるのだから、
それを行うことができる。
申命記30:14

群衆が
「では、私たちはどうすればよいのですか」と尋ねると、
ヨハネは、
「下着を二枚持っている者は、
一枚も持たない者に分けてやれ。
食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
ルカ3:10~11

 マタイ14:22~33
 ルカ17:20~37(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/14;土)

 私たちにしてほしいと思っておられる、天の神、主の御言葉、御思いは、
高尚で、深くて、手の届かない、むつかしい事、
長い、厳しい修行をしてやっと到達する境地とか、あるいはまた、
遠く、天竺まで取りに行かないといけないような事ではなく、
ごく身近にあること、
むしろ、普通の、常識的な、日常的なことの中にあるようですね。
バプテスマのヨハネが、民衆に答えたこともそうですが、
預言者ミカは次のように記しています。

「私は何をもって主の前に進み行き、

いと高き神の前にひれ伏そうか。

全焼のいけにえ、1歳の子牛をもって御前に行くべきだろうか。

主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。

私の犯したそむきの罪のために
 私の長子をささげるべきだろうか。

 主はあなたに告げられた。
 人よ。何が良いことなのか。
 主は何をあなたに求めておられるのか。
 それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、
 へりくだって
 あなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:6~8新改訳)。


 天の神、主は、イザヤを通して言われます。

「あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、

だれが、わたしの庭を踏みつけよ、と
あなたがたに求めたのか。

もう、むなしいささげ物を携えて来るな。

香の煙――それもわたしの忌みきらうもの。
新月の祭りと安息日――会合の招集、
不義と、きよめの集会、
これにわたしは耐えられない。
 ~~
あなたがたの手は血まみれだ。
洗え。身をきよめよ。
わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
悪事を働くのをやめよ。
善をなすことを習い、
公正を求め、しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをし、
やもめのために弁護せよ(イザヤ1:12~17)。


そして、近くにある御言葉、
私たちは、口でイエスを主と告白し、
心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、
救われるのだそうです。
人は心に信じて義と認められ、
口で告白して救われる、のだそうですから。
「彼に信頼する者は、失望させられることがない」、
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のだそうですから(ロマ10:9~13)。


十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られ、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを、
わたしたちの心に置いてくださるのだそうです。
それで、御思い(御言葉)が、私たちの心に来るのだそうです。

弟子たちが、ガリラヤ湖で、舟が、向かい風で、波に悩まされていたとき、
エスが湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいて来られたのだそうです。
舟の中の弟子たちは、「あれは幽霊だ」と、恐ろしさのあまり、叫び声をあげたのだそうですが、
それがイエスだと分かると、ペテロが
「主よ。もし、あなたでしたら、
私に、湖の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」と言うと、
エスは、「来なさい」と言われ、
ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行ったのだそうです(マタイ14:22~29)。

私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、心に来た御思い(御言葉)によって一歩踏み出す時、
それができるようですね。

 それで、天の神、主の御思いが成り、
人の目には見えない神の国(神の支配、統治)が、私たちのただ中に来る、
私たちの中にあることになるのだそうです(ルカ17:20~21)。


そして、見えるかたちでの神の国(いわゆる、携挙、空中再臨と言われているもの)は、
突然に、
ノアが箱舟に入るその日まで、
人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしているとき洪水が襲ってきたように、

ロトの時代に、人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたその時、
天から火と硫黄が降って来たように、
地球上、すべてのところに同時に来るのだそうです(22~35)。

そして、三度目のイエスの来臨による、この地上での見えるかたちでの神の国は、
多くのしるしを伴って、来る(37、ルカ21:8~32、ゼカリヤ14:1~5、黙示録19:11~16)ようです。

 

 

 私たちのごく近く、口に、心にある御言葉、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に来る
〔父である神〕の御思いが成っていくとき、
私たちは、目に見えない神の国(支配、統治)のただ中に、いることになるのですね。
今日も。

 

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