風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

御思いについて行き、栄光を受ける、その時を

私たちは皆、
キリストの裁きの座の前に立たなければなりません。
Ⅱコリント5:10(11/19の週の聖句)

 あなたの神、主は、
あなたの手の業をすべて祝福された。
申命記2:7

 ですから、大切なのは、
植える者でも水を注ぐ者でもなく、
成長させてくださる神です。
Ⅰコリント3:7

 マタイ25:31~46
 詩63(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/19;Ⅲ日)

 私たちは皆、死んだ後、復活して、キリストの裁きの座に現れて、
善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて
報いを受ける時が来のだそうですね。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、モーセを通して言われます。

「あなたがたは、エジプトを出た後の、荒野での40年の旅で、
天の神、主がイスラエルの民がしたすべてのことを祝福し、
この広大な荒野の旅を見守り、
共にいたので、
何一つ欠けたものはなかった。
だから、同族、エサウの領土内を通るとき、争いを仕掛けてはならない」、と。

 使徒パウロは、コリントの信徒たちに書き送っています。

「あなたがたは、私はパウロにつくとか、私はアポロにつくとか言い合って、
ねたんだり争ったりしています。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。
しかし、私たちは神に用いられ、
天の神、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのであって、
大切なのは、成長させてくださる神です」と。

〔父〕である神は、〔御子〕である神を人間イエスとして、人の世に遣わされ、
この方がおよそ33歳のころ、
私たち、すべての人間の身代わりとして、
ユダヤ人の指導者たちのねたみとローマ軍の手を用いて、
十字架刑で処刑されました。

 そして、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
神にそむいている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、
この、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣し、
この方によって、私たちの心にご自身の御思いを置いてくださり、
私たちが、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして、
ご自身がしようと思われることをしていく、
新しい生き方を生きるようにしてくださるのだそうです。

それで、パウロやアポロが用いられ、
御思いのとおりをしていったように、
私たちも用いていただけるのだそうです。

 神が私たちを祝福し、与えていてくださるものを用いて、
空腹の人に食べる物与え、
渇いている人に飲ませ、
旅人に宿を貸し、
裸の人に着る物を与え、
病気をしている人を見舞い、
牢にいる人を訪ねるように、と(マタイ25:31~46)。

 そして、与えられている(預けられている)ものを御思いのとおりに用いたか、
清算される時があるのだそうですね(マタイ25:14~30)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置かれた御思いについて行き、
与えられているもの(預けられているもの)を御思いのとおりに用いていって、
御国を受け継ぐ分と、
〔生まれた時からの私〕から来る思いでやっていって、
外の暗闇に放り出される分とが切り分けられる、
そのような時が。

私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行き(ガラテヤ5:24~25)、
ダビデのようにうたいたいですね。

「神よ。あなたは私の神。

私はあなたを切に求めます。

水のない、砂漠のおとろえ果てた地で、

私のたましいはあなたに渇き、

私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

私は、あなたの力と栄光を見るために、

こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。

あなたの恵みは、いのちにもまさるゆえ、

私のくちびるは、あなたを賛美します。

 

それゆえ私は生きているかぎり、

あなたをほめたたえ、

あなたの御名により、両手を上げて祈ります。

私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、

私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

ああ、私は床(とこ)の上であなたを思い出し、

夜ふけて私はあなたを思います。

あなたは私の助けでした。

御翼の陰で、私は喜び歌います。

私のたましいは、あなたにすがり、

あなたの右の手は、私を支えてくださいます(詩篇63:1~8)、と。

この新しい週も。

 

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