風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神の愛の心が留まるのだそうです。私たちの内にも。

施すべき相手に善行を拒むな、
あなたの手にその力があるなら。
箴言3:27

 世の富を持ちながら、
兄弟が必要な物に事欠くのを見て
同情しない者があれば、
どうして神の愛が
そのような者の内にとどまるでしょう。
Ⅰヨハネ3:17

 黙示録1:(1、2)3~8
 申命記7:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句1/25;木)

「出直してくれ。明日、あげよう、と友に言うな。
あなたが今もっているなら。」(箴言3:28)、
とも書かれているのですね。

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
ことばや口先だけで愛することをせず、
行いと真実をもって愛する(Ⅰヨハネ3:18)〔父である神〕の御思いを、
私たちの心にも置いてくださるのだそうですから。


 ヨハネは書き送っています。
イエス・キリストは私たちを愛して、
その(十字架刑での処刑で流された)血によって私たちを罪から解き放ち、
また、私たちを王国とし、
ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。
キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。

 見よ。彼(イエス)が、雲に乗って来られる。
すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが
(イエスが死んでいることを確認するため、
ローマ兵がイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た、のだそうです。
赤血球と血清が分離していたということでしょうか)、
彼を見る。
地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。
しかり。アーメン。


 神である主。
今いまし、昔いまし、後に来られる方。
万物の支配者がこう言われる。
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(ω)である」(黙示録1:5~8)、と。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方と
心を一つにして生きる場から的外れになっている者であり、
余分に持っていて、困っている人を見ても、出し惜しみする心の者です。

〔父である神〕は、その、「的外れ」になっている
私たちの「生まれたときからの霊」を、
エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
死んだもの、処刑された者としてくださり、
これといっさいの関係を持ち続けない(申命記7:1~5)、
これを生かそうとしないでいいようにしていてくださるのだそうです。

エスを通してもう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によってご自身の御思いを、心に置いてくださるのだそうです。
それで、出し惜しみする私たちの心にも、
〔父である神〕の愛の御思いが来るのだそうです。

 私たち、自分の内には愛がないことを認め、
出し惜しみする思いも御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、
心に来る〔父である神〕の御思いに、
ついて行くようにしていただけるのだそうです。
天の神、主が恋い慕ってくださる、
主の聖なる民、
宝の民(申命記7:6~8)として。
今日も。