風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

迷っていませんか。どうしたらいいのか、

主を畏れる人は誰か。
主はその人に選ぶべき道を示される。
詩25:12

 キリストはあなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に続くようにと、
模範を残されました。
Ⅰペテロ2:21

 Ⅰヨハネ1:8~2:2(3~6)
 ヨハネ11:46~57(通読箇所)

  (ローズンゲン日々聖句3/1;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を畏れ敬う者、
主はその人に行くべき道を示され、
正しい道を選べるようにしてくださる方のようですね。

 私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている人間は、
自分の理性の判断で善しと思える道を歩む者ですが、
私たちの知るところは部分的であり、
その判断は「的の外れた」ものであることが多いようです。

ですから、すべてを知っておられる方に聞きながら、相談しながら、
事を進めていくことが善い道を選ぶ秘訣のようです。

 けれども、正しいこと、善いことを行っても、今の世では、必ずしも、
それが、受け入れられ、正しく評価されるばかりではないようです。

 しかし、罪を犯したために打ちたたかれて、
それを耐え忍んだからといって、
それが誉れになるわけではありませんが、
善を行っていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、
それは、神に喜んでいただけること、なのだそうです。

 イエスご自身も、罪を犯したことがなく、
その口に何の偽りも見いだされなかったのですが、
私たちのために苦しみを受けてくださり、
ののしられても、ののしり返さず、
苦しめられても、おどすことをせず、
正しくさばかれる方にお任せになったのだそうです。

 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ、
私たちが罪を離れ、
義のために生きることができるようにしてくださったのだそうですから(Ⅰペテロ
22024)。

 私たち、自分の罪はおおい隠して、口をぬぐっていたい者です。
けれども、神の前に罪を言い表し、差し出していって、
ありのままの自分を見ていただき、知っていただくなら、
エスの十字架刑での処刑を私自身に適用して下さって、
処罰が終わっている者としてくださるのだそうです(Ⅰヨハネ
1822)。

 〔父である神〕は、ひとりの人が民の代わりに死んで、
国民全体が滅びないようにし
(ヨハネ1120
義に生きるようにしてくださるのだそうですから


 イエスの十字架刑での処刑と死者の中からの復活により、来てくださる、
〔聖である霊」と呼ばれる方は、受け入れる者の心に、
〔父である神〕が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、御思いにそった道を選び、生きるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。



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