風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

お迎えしてみますか。〔聖である霊〕と呼ばれる方。あなたも。

主が私に語り始めた時、
霊が私の中に入り、
私を自分の足で立たせた。
私は語りかける者の声に耳を傾けた。
エゼキエル書2:2

 女が言った。
「私は、
キリストと呼ばれるメシヤが来られることは
知っています。
その方が来られる時、
私たちに一切のことを知らせてくださいます。」
エスは言われた。
「それは、このわたしである。」
ヨハネ4:25~26

 ガラテヤ2:16~21
 ヨハネ12:12~19(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/3;土)

 エゼキエルが見たその方は、
ケルビムと呼ばれる天使の頭の上、
大空のはるか上のほうにある、
サファイアのような何か王座に似たもののはるか上におられ、
その腰と見える所から上のほうは、
その中と回りとが青銅のように輝き、火のように見え、
その腰と見える所から下のほうに、火のようなものが見え、
その方の回りには輝きがあったのだそうです。
その輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、
主の栄光のように見えたのだそうです(エゼキエル1:25~28)。

その〔御子である神〕が、
キリスト(神の子、救い主。ヘブル語ではメシヤ)として、
人となって、私たち人間の世に来られた。
エスは、「わたしが、それである」と言われるのですね。

そして、過ぎ越しの祭りのとき、
エスが、十字架刑での処刑を受けるために(ルカ18:31~33)、
預言のことば(ゼカリヤ9:9)のとおりに、ろばの子に乗って、
最後のエルサレム入場をされたとき、
人々は、しゅろの枝を取って、出迎え、
「ホサナ。祝福あれ。
主の御名によって来られる方に。
イスラエルの王に」と大声で叫んで、
王であるキリストを出迎える仕方で、出迎えたのだそうです(ヨハネ12:12~19)。

 この方が、すべての人間の身代わりとなって、
十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活され、
天の〔父である神〕の右の座に帰られ、
その〔父である神〕の右の座にあって派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方。

 その方が、受け入れる者の中に入り、受け入れる者を立たせて、
〔父である神〕の語りかけを心に聞かせてくださり、
一切のことを知らせてくださるのだそうです。
 

この方は、
〔父である神〕と一つになっておられる〔御子である神〕と
一つになっておられる方。
〔御子である神〕のものを受けて、
私たちに知らせてくださる方(ヨハネ16:13~15)なのだそうですから。

 〔父である神〕は、
私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせて、
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださって、
キリストが内に生きておられる者に、
エスが派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
内にあって心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いによって生きる者にしてくださるのだそうですから(ガラテヤ2:19~20)。

今日も。

 

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