風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

岩の上を、しっかりとした、確かな歩みを

主は、滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、
私の足を岩の上に立たせ、
しっかりと歩ませてくださった。
詩40:3

 イエスの言葉:
はっきり言っておく。
死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。
今やその時である。
その声を聞いた者は生きる。
ヨハネ5:25

 ヨハネ6:26~35
 ヨハネ13:31~38(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/12;月)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身を待ち望む者、
ご自身に叫び求める者の声を聞き、
滅びの穴、底なしの泥沼から私たちを引き揚げ、
堅い岩の上に立たせ、
しっかりとした、確かな歩みを歩ませてくださる方なのだそうですね。
岩盤を土台として建てた家のように(ルカ6:46~49)。

私たちは、天の神、主からさまよい出て、
神なく、望みなく、滅びに向かって歩んでいる者、
滅びが定まっている者なのですが、
神の声を聞き、生きるものになる、その時が来ているというのですね。

〔父である神〕が
ご自分のうちにいのちを持っておられるように、
〔子〕にも、
自分のうちにいのちを持つようにされているのだそうですから(ヨハネ5:26)。

エスは、ご自身のことを、
「天から下って来た神のパン」だと仰られました(ヨハネ6:35)。
「これを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)、と。

 私たちのからだは、食べた物によってできており、
食べた物がからだの中にあり、
ある意味で、からだは食べた物の中にある、
食べた物とからだが一つだ(ヨハネ17:21~22)、ということができるでしょうか。

 イエスは、十字架刑での処刑を受けて死んでくださいました。
私たちは、そのイエスに合わせていただいて、
私自身である、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)、
〔生まれたときからの私〕という霊を
十字架刑での処刑が済んだもの、
死んだもの、と手続きをしていただけるのだそうです。

そして、三日目の日曜日の早朝、
死人の中から、新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について語った後、
オリーブ山から、
弟子たちのみている前で、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
〔父である神〕は、
受け入れる者をこの方で覆い、
この方の中に浸し、沈め、漬け込み、満たし、バプテスマして、
ご自身が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
受け入れる者の心に置いてくださって、

また、この方が、
私たちの思いを〔父である神〕にとりなしてくださって(ロマ8:26~27)、

〔父である神〕の御思いが受け入れる者の内にあり、
受け入れる者の思いが〔父である神〕の中にあるようにしてくださるのだそうです。
一つになっている者。いのちのパンを食べた者に。

 それで、この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕のひとりひとりに対する愛の御思いが心に来ているなら、

その人は、イエスといういのちのパンを食べた者、
エスと一つになっている者、
エスの弟子であることが
周りの人に分かるようになる(ヨハネ15:34~35)、というのですね。

 

 底なしの泥沼に沈んでいた者が、岩の上に引き上げられ、
岩の上を(父である神の御思いの中を)歩んでいる者に、
新しい人生を生きる者になっていることが。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

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