風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ありのままの、このままのところから

 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。イザヤ書52:9

 あなたがたは、
恵みにより、信仰によって救われました。
このことは、
自らの力によるのではなく、
神の賜物です。
エフェソ書2:8

 ヨブ記19:21~27
 ヨハネ16:5~15(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句3/20;火)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自分の民を慰め、エルサレムを贖われ、
さらに、ご自分の民ではなかった私たちをも、ご自分の民にしようと、
御子イエスが受けてくださった十字架刑での処刑によって
贖(あがな)ってくださったのだそうです。

 そして、これを、恵みの、無代価の、
タダでもらえるプレゼントとして差し出してくださっているのだそうです。

 それで、私たちは、このことを信用して、受け取るだけ、もらうだけで、
自分の力で何も出来ていないのに、救いに入れていただけるのだそうです。

ヨブが激しい苦しみの中で待ち望み、
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日には、ちりの上に立たれることを」(ヨブ19:25)と言った、
その贖い主として、
エスは確かにこの地の上に、人間の歴史の中に立たれ、
ご自分の身と命を、私たちを贖う代価として献げて、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうですから。

それで、私たち一人一人の「的外れ」、背きの罪は、処罰済みとしていただけて、
聖である方が私たちに来ても私たちが滅びてしまわないようになり、

神が妬むほどに愛しておらあれる方、
〔聖である霊〕とか〔真理の御霊〕と呼ばれる方が
もう一人の助け主として、
受け入れる者に来てくださる道が開けたのだそうです。

 

 この方は、イエスがそうであったように、
自分から語るのではなく、
〔父である神〕から聞くままを話し、
エスが〔父である神〕から受けたものを、
そのまま、私たちに知らせてくださるのだそうです(ヨハネ16:13~15)。

 この方が、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思い、
語ろうとしておられることをそれぞれの心に置いてくださるので、
私たちの内に〔父である神〕の御思いがあるようになり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
私たちがその思いについていくとき(ガラテヤ5:24~25)、
私たちは神がしようとしておられることをしていく器として、
用いていただけるようになるのだそうです(ヨハネ14:12)。

 

 御心を地にもたらす者、

新しい契約に生きる者として。

 「主はその民を慰め、
エルサレムを、私たちを贖われた」と喜び歌いながら。

今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

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