風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ご自分と心を一つにする者を求められて

主は、世界中至るところを見渡され、
ご自分と心を一つにする者を
力づけようとしておられる。
歴代誌下16:9

 女はイエスファリサイ派の人の家で
食事の席についておられるのを知り、
香油の入った石膏の壺を持って
エスの足もとに近寄り、
泣きながらその足を涙でぬらし始め、
自分の髪の毛でぬぐい、
香油を塗った。
ルカ7:37~38

 ルカ18:31~43
 ヨハネ17:11b~26(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/24;土)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛し合い、尊敬し合い、
その愛と尊敬においてお互いに心を一つにしておられる、
一つになっておられる方、
唯一の神、なのだそうです。

 そして、その「一つ」に、もっと加わる者を、と望まれて、
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして。
われわれに似せて」と仰られて、
人間を造られたのだそうです(創世記1:26)。

 それで、この方は、世界中、至る所、あまねく全知を見渡され、
その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現し、
力づけようとしておられるのだそうです。

 イエスが、ガリラヤ地方のナインという町におられたときのことでしょうか。
あるパリサイ人
(律法を厳格に守ろうとし、自分たちは一般の人から分離しているとしたグループの人)が、
エスを食事に招いたのだそうです。

それで、イエスはそのパリサイ人の家に入って
食卓についておられたのですが(たぶん、寝そべって横になり、左ひじをついたかたちで)、
ひとりの罪深い(不道徳な)女が、香油の入った石膏の壺を持って、
エスのうしろに近寄り、
涙で、ほこりにまみれたイエスの足をぬらし、
髪の毛でぬぐい、
エスの足に口づけして、香油を塗ったのだそうです。

自分の罪深さを自覚していて、その罪を赦していただいている感謝と愛が、
この女性をこのような行動に駆り立てたのでしょうか。
周りにいる人々の、
「この罪深い女」との、冷たい視線も目に入らずに。

 イエスがエリコの町の旧市街と新市街の間を通っておられたときのこと、
道ばたに座って物乞いをしていた二人の盲人が、
エスがお通りになるのだと聞いて、
ダビデの子のイエスさま。私たちをあわれんでください」と、
人々が黙らせようとするのもかまわず叫び続けたのだそうです。


 それで、イエスはふたりを呼び寄せ、
「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、
彼らは、「主よ。見えるようになることです」と答え、
エスが、
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、
彼らはたちどころに見えるようになったのだそうです。

神をあがめながらイエスについて行く者に(ルカ18:35~43、マタイ20:29~34)。

 

エスは、弟子たちに話しておられたのだそうです。

「さあ、これから、私たちはエルサレムに向かっていきます。
人の子(イエスがご自身のことを、よく、このように言われた)について
預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
人の子は異邦人に引き渡され、
そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
彼らは人の子をむちで打ってから殺します。
しかし、人の子は三日目によみがえります」(ルカ18:31~33新改訳)と。

そして、過ぎ越しの祭りでほふられる小羊が神殿に連れて行かれるその日に、
エスは、子ろばに乗ってエルサレムに入られ(ゼカリヤ9:9~10、マタイ21:1~11)、
神の怒りが過ぎ越すために、民の身代わりの小羊がささげられるその日に、
十字架刑での処刑を受けられ、
その小羊がほふられるその時刻、午後の3時頃、
エスは、「完了した」と言われて(ヨハネ19:30)息を引き取られたのだそうです。

日没からは、過ぎ越しの祭りの、特別に大事な安息日が始まるので、
エスのからだは、急いで取り降ろされ、
近くにあったアリマタヤ出身のヨセフが自分のために掘っておいた墓(洞窟)に納められ、
入り口は大きな石のふたでふさがれ、
そのうえ、弟子たちが来て死体を盗み出さないようにと、
ローマ帝国の権威による封印がされ、
ローマ兵が番をしていたのだそうです(マタイ27:62~66)。

けれども、安息日(土曜日)が明けた日曜日の早朝、
マグダラのマリヤと数人の女性が墓に行ったところ、ローマ兵の姿はなく、
ふたの石は横に転がしてあって、
エスのからだはなく、
主の使いが現れ、イエスは復活されたと告げたのだそうです(マタイ28:1~14)。

エスは、新しい霊のからだに復活されたのだそうです。
復活の初穂として。
大麦の初穂が神殿にささげられるその日に(レビ23:4~11)。

 

その後、イエスは、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自分が生きていることを証しされ、
神の国のことを語った後、
オリーブ山で、弟子たちが見守る中、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

〔父である神〕は、受け入れる者、受け取る者の、
その人自身である〔生まれたときからの私〕という霊を、
このイエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑が済んだもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

そのうえで、このイエスを通して、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを、
心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって生きる、
新しい生き方をするようにしてくださるのだそうです。

あの罪の女のようにイエスに感謝と愛をささげ、
エリコ街道の盲人のように、
エスと心を一つにしてイエスについて行く者に。

〔父である神〕は、世界中、至るところを見渡され、
ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられるのだそうですから。

今日も。

 

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