風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

信じる者が皆、永遠の命を得るために

 人の子も上げられなければならない。
それは信じる者が皆、
永遠の命を得るためです。
ヨハネ3:14~15(3/25の週の聖句)

  主の力強い御業を言葉に表し、
主への賛美を
ことごとく告げうる者があろうか。
詩106:2

 大勢の群集は、
エスエルサレムに来られると聞き、
なつめやしの枝を持って迎えに出た。
そして、叫びつづけた。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように、
イスラエルの王に。」
ヨハネ12:12~13

  ヨハネ12:12~19

 詩92(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖書句3/25;Ⅳ日)

 永遠の命とは、
〔父である神〕と
〔父である神〕が遣わされた〔御子である神〕を
体験的に知ること、
つまり、この方との交わりの中で生きること、
なのだそうです。

 私たちがその関係に入れていただくためには、
エスご自身が「上げられなければならない」と、
エスはおっしゃるのですね。

 十字架刑を受けて、
天と地の間に掲げられなければならない、と。

 イエスエルサレムに来られると聞いて、
イスラエルの人々は、
いよいよ、イエスが王として立ち、
死人を生き返らせ、
生まれつきの盲人の目を開き、
足のなえた者を立たせ、
5つのパンと2匹の魚で、
壮年の男だけで5千人はいた人々を満腹にさせた、
あの奇跡の力で、
圧倒的に優勢なローマ軍を追い返し、
ダビデの王国を再建してくれる時が来たと。

 しかし、イエスは、王として立とうとはせず、
自分の身を明け渡して、
十字架刑に付けさせる道を進まれたのだそうです。
 
 私たちの身代わりとなり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)
「生まれたときからの私」という霊を処刑済みのもの、死んだものとし、
聖である方が来られても、私たちが滅びてしまわないようにするために。

 そのことが成ったうえで、
復活し、〔天の父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
受け入れる者の心に、
〔父である神〕が
私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、
受け入れる者は、〔父である神〕と
思いを同じくし、
心を一つにして生きるようにしていただけるのだそうです。
神との一つの関わりの中を。
永遠の命を生きる生を。

 朝に、神である主の恵みを、
夜ごとに、神である主の真実を、
その御業を言い表し、
御手の業を喜び歌いながら(詩篇92:2~4)。
 この新しい週も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)

 

 

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]