風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべてを喪失した者、自分を、なんにもない窮している者と認めて

 主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、
その祈りを侮られませんでした。
詩102:18

 イエスは話された。
「徴税人は遠くに立って、
目を天に上げようともせず、
胸を打ちながら言った。
『神様、罪人の私を憐れんでください。』
言っておくが、
義とされて家に帰ったのは、この人である。」
ルカ18:13~14

 使徒1:12~26
 ヘブル9:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句5/17;木)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
自分が、神の前に、すべてを喪失している者、
窮している者、
心(霊)が貧しい、
神様の前に持ち出せる自分の義はひとかけらもなくて、
乞食のように、
ただ、神様からもらうしかない者と認めた者の祈りを顧みてくださる方、
その祈りを侮ったり、ないがしろにしたりはされない方なのだそうです。

 それで、イエスは話しているのですね。
神が義と認めてくださるのは、
自分を義人だと自任し、
自分を一生懸命、神様の律法を守ろうと努力し、守っていると自任し、
他の人々を見下しているパリサイ人(
神の律法を守ろうと特に努力しているグループの人)ではなく、
自分には神の前に差し出せるものは何にもなくて、
ただ、自分の胸をたたいて、
「神さま、こんな罪人の私をあわれんでください」と祈るしかなかった
取税人
(支配者ローマのための税金を取り立てる仕事をして、世間からつまはじきにされていた人)だったと。

 イエスを裏切り、祭司長たちに引き渡したイスカリオテのユダは、
エスの12使徒の一人でしたが、
もしかすると、このパリサイ人的な要素が抜け切れておらず、
ユダの抜けた後の12使徒に加えられたマッテヤは、
この基準に近かったのかもしれません(使徒1:12~26)。

 イエスは、このすべてを喪失した者、
胸をたたきながら
「こんな罪人の私をあわれんでください」と言うしかない者を
義とするために、
ご自身が十字架刑での処刑で流された血を携えて〔父である神〕の御前に出て、
神のひとりのようになろうとし、善悪を知る者になっている
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を処刑済みのもの、
死んだものとしてくださっているのだそうです(ヘブル9:1~10)。

 そして、イエスは、〔父である神〕の右の座にあって、
この、ご自身の血による
〔生まれたときからの私〕という霊の死をもらった者、受け取った者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって〔父である神〕の御思いを、
ひとりひとりの心に置き、書きつけて、
受け入れる者が〔父である神〕と一つ心、
一つ思いになって生きるようにしてくださるのだそうですから。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)


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