風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

本物の自由の中へ

 民はモーセのもとに来て言った。
「私たちは主とあなたを非難して、
罪を犯しました。
主に祈って、
私たちから蛇を取り除いてください。」
モーセは民のために主に祈った。民数記21:7

 イエスは言われた。
「もし子があなたたちを自由にすれば、
あなたたちは本当に自由になる。」
ヨハネ8:36

 Ⅱコリント1:23~2:4
 ヘブル書13:1~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/5;火)

 出エジプトをしたイスラエルの民、
不信仰のゆえに、荒野での40年を過ごし、
いよいよ、約束の地に向かって進み始めました。

 しかし、民は、途中でがまんできなくなり、
民はモーセに逆らって言ったのだそうです。
「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、
この荒野で死なせようとするのか。
パンもなく、水もない。
私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

 そこで主、
「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、
民の中に燃える蛇を送られたので、
蛇は民にかみつき、
イスラエルの多くの人々が死んだ」(民数記21:4~6)のだそうです。

 モーセは民のために祈り、
主はモーセに仰せられた。
「あなたは燃える蛇を作り、
それを旗ざおの上につけよ。
すべてかまれた者は、
それを仰ぎ見れば、生きる。」

 それで、モーセは一つの青銅の蛇を作り、
それを旗ざおの上につけたので、
蛇にかまれた人が、その青銅の蛇を仰ぎ見ると、
生きた(民数記21:7~9新改訳)のだそうです。

 イエスは言われます。
「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。
しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、
あなたがたはほんとうに自由なのです」、と。

 そして、神の独り子であるイエスが、
私たちの、罪、「的外れ」を赦し、自由にするために、
ご自身を私たちの身代わりに差し出し、
十字架刑での処刑を受け、木に架けられてくださったのですね。
青銅の蛇が旗ざおに上げられ、
それを仰ぎ見た者は生きたようにするために。

 使徒パウロは、
コリントの弟子たちの中にいた不品行な者、
父の妻を妻にしている者を、
彼の肉が滅ぼされても、彼の霊が救われるようにと、
彼を弟子の仲間から外してしまうようにと命じています(Ⅰコリント5:1~4、13)。
あふれるばかりの愛をもって。

 だから、その人が、その処罰によって、
自分の不品行を悲しみ、立ち返ったとき、
その人を赦し、慰めてあげるように勧めているのですね。
その人があまりにも深い悲しみに
押しつぶされてしまわないようにと(Ⅱコリンント2:4~7)。

 このイエスの十字架刑での処刑により、
「子」であるイエスによって「的外れ」を赦され、
自由な者としてもらった者に来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心にも、〔父である神〕の御思い、
兄弟を愛する思い、
旅人をもてなす思い、
エスの弟子であるゆえに牢につながれている人々、
苦しめられているを思いやる思いを置いてくださるのだそうです。

 結婚を尊び、
寝床を汚す、不品行、姦淫を避ける思いも。
金銭により頼まず、
「わたしは決してあなたを離れず、
あなたを捨てない」(申命記31:6.ヨシュア1:5)
と言ってくださる方に信頼し、
「主は私の助け手です。私は恐れません。
人間が、私に対して何が出来ましょう」(詩篇118:6)
と思わせてくださるのだそうです。

 神の御言葉を話した指導者たちのことを思い出し、
彼らの生活の結末をよく見て、
その信仰にならうように。
イエス・キリストは、昨日も今日も、
いつまでも、とこしえに同じ、変わらない方であることを
知らせてくださるのだそうですから。

 さまざまな異なった教えによって心を惑わされないように。
食物の規定に気を取られるのではなく、
恵みによって心を強めるように。

 イエスが、ご自分の血によって
私たちを聖なる者とするために、
エルサレムの門の外で苦しみを受けられたように、
私たちも、キリストの辱しめを身に負い、
宿営の外に出てみもとに行く者に。
この地上に永遠の都を求めるのではなく、
後に来ようとしている都を求める者にしてくださるのだそうです。

 上げられ、十字架に架けられた
神の御子、イエスを見上げながら、
〔父である神〕がしようと思われる御業の中へと。
今日も。

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