風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

戦車、馬、軍備ではなく、主の御名を誇りとして

 光の子として歩みなさい。
光から、
あらゆる善意と正義と真実が生じるのです。
エフェソ書5:8~9(7/22の週の聖句)

 戦車を誇る者もあり、
馬を誇る者もあるが、
我らは、我らの神、
主の御名を唱える。
詩20:8

 キリスト・イエスにおける恵みによって
強くなりなさい。
Ⅱテモテ2:1

 マタイ5:13~16
 詩48(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/22;Ⅳ日曜)

 イエスは、天の御国のたとえとして、
花婿を出迎えるため、
ともし火を持って花婿を出迎える10人の乙女の話しをしておられます。
5人は予備の油を用意していたが、
あとの5人は予備の油を用意していなかったという。

 また、イエスは言われます。
「あかりをつけて、それを枡(ます)の下に置く者はありません。
燭台の上に置きます。
そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
人々があなたがたの善い行いを見て、
天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:15~16)。

 ともし火、あかり、
当時はランプだったのですね。
ランプは、ランプ自身で光を出すことは出来ません。
ランプは中の油が灯心を通って、その先で燃えて光を放つものです。

 イエスの話しの中などでは、
油は、〔聖である霊〕と呼ばれる方をさしていることが多いです。
すると、ランプの器具や灯心は私たちのことなのでしょうか。

 「光の子として歩む」、
「あなたがたの光を人々の前で輝かせる」、
その光は、
私たち自身から出るものではなく、
私たちのうちに来られる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、私たちをとおして働かれる、
その働きの現れのことなのでしょうね。

 「あらゆる善意と正義と真実」、
それは、私たちのうちにあるものではなく、
私たちのうちから出て来るものではなく、
天の神、主のご性質なのでしょうから。

 自分で立とうとする者は、
自分の力を強くし、自分の力の強さを誇りとするようです。
「戦車を、軍馬を」、軍備を整えて安心し、誇るように。

 けれども、キリストにおける恵みによって、
私たちの功績によらず、
恵みとして、
エスによって来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方の強さを
私の強さとする生き方もあるようです。

この詩篇48篇の作者のように。

 主は、
「『わたしはある(I AM)という者」と名乗られる方は、
大いなる方。
大いにほめたたえられるべき方。
その聖なる山、われらの神の都において。
高嶺の麗しさは、全地の喜び。
北の端なるシオンの山は大王の都。

 神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。
見よ。王たちは相つどい、ともどもにそこを通り過ぎた。
彼らは、見るとたちまち驚き、おじ惑って急いで逃げた。
その場で恐怖が彼らを捕らえた。
産婦のような苦痛。
あなたは東風でタルシシュの舟を打ち砕かれる。
私たちは聞いたとおりを、そのまま見た。
万軍の主の都、われらの神の都で。
神は都を、とこしえに堅く建てられる。(詩篇48:1~8新改訳)

 私たちに代わって
十字架刑での処刑を受けてくださって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わったもの、死んだものとしてくださり、

 墓に葬られ、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活して、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
受け入れる者をとおして、
〔父である神〕の御思いのとおりを実行してくださるのだそうですから。

 善意と正義と真実をもって。
この新しい週も。

 

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