風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべてのことは、神から発し、神によって成り、神に至るのだそうですから。

 神はご自分にかたどって人を創造された。
神にかたどって創造された。
男と女に創造された。
創世記1:27

 主においては、
男なしに女はなく、
女なしに男はありません。
それは女が男から出たように、
男も女から生まれ、
また、すべてのものが神から出ているからです。
Ⅰコリント11:11~12

 マタイ5:33~37
 ヨハネ6:60~71(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句7/25;水)

 天の神、主は、霊であって、
形をもたないお方なのですね。

 それで、
「ご自分にかたどって人を創造された」という、
「われわれのかたち、われわれに似せて」(創世記1:26)とは、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神の
関係をさしているということでしょうか。

 「それは、父よ、
あなたがわたしにおられ、
わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになるためです」(ヨハネ17:21)と
エスが言っておられるように。

 そして、
ひとりの男とひとりの女、
結婚は、この神の「かたち」そのものなのでしょうね。

 「それゆえ男はその父母を離れ、
妻と結び合い、
ふたりは一体となるのである」(創世記2:24新改訳)の
「それゆえ」は、
直前の、女が男の「助け手」として、
男のあばら骨から女が造られたことをさすのでしょうが、

 さらに、
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」にまで
さかのぼることができるのでしょうか。

 つまり、男一人では、
「われわれのかたち、われわれに似せ」た関係ができない、
ということになるのでしょうか。


 結婚は、

「われわれ」、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、自由意思で、自発的に
思いを一つにし、心を一つにし、行動を、存在を一つにしていらっしゃる、

 「自分のこころを行なうのではなく、
遣わした方のみこころを行なおう」としていらっしゃる(ヨハネ6:38、16:14)、

 その一つの中に加えられて、
神と思いを同じくし、心を一つにした者どうしが、
一つに、一体になるという。

 だから、神は、結婚を大切にし、
これを壊す不品行、姦淫を極端に嫌われるのでしょうね。

 よく、世で言われている、
「ふたりが合意の上ならいい」のではなく、
ふたりとも石で打ち、悪を除き去るように(申命記22:22~27)と
厳しく命じておられるように。

 私たちも、神から出ている者、
〔父である神〕の御思いによって生まれて来て、
御思いによって今日まで運ばれて来たもの。

 だから、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語ったのち、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者の心に置いてくださる御思いは、
エスがそうであったように、
愛と尊敬において、自由意思で自発的に、
「自分の思いが成ることではなく、〔父である神〕の御思いが成るように」と
願っていく思いのようです。

 それで、事に当たっては、
自分の思いを通そうとして、神かけて誓うようなことはせず、
事実を事実のままに、
「はい」は「はい」、
「いいえ」は「いいえ」とだけ言い、
〔父である神〕の御思いが成ることを見ていくようになるのだそうです(マタイ5:33~37)。

 イエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって(ヨハネ6:60~71)。
今日も。

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