風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

祈り求めたものは、既に得られたと信じて

 主が勝利を得られるために、
兵の数の多少は問題ではない。
サムエル記上14:6

 祈り求めるものはすべて
既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
マルコ11:24

 Ⅰコリント10:23~31
 ヨハネ8:12~20(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/1;水)

 イスラエル第1代の王サウルの息子ヨナタンは、
「主が勝利を得られるために、
兵の数の多少は問題ではない」と言って、
攻め寄せて来たペリシテの軍勢、
戦車3万、騎兵6千、
それに海辺の砂のように多い歩兵の先陣の前に、
道具持ちと二人で向かって出て行ったのだそうです。

 そして、そのとき、
天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
ペリシテの陣営に大きな恐怖を起こし、
イスラエルに大勝利をもたらしてくださったのだそうです(1サムエル13:1~14:23)。

 イエスは言われるのですね。
「神を信じなさい。
まことにあなたがたに告げます。
だれでも、この山に向かって、
『動いて、海には入れ』と言って、
心の中で疑わず、
ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、
そのとおりになります。

 だから、あなたがたに言うのです。
祈って求めるものは何でも、
すでに受けたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:23~24新改訳)。

 けれども、そう言われるイエス御自身は、
「もしわたしがさばくなら、
わたしひとりではなく、
わたしを遣わした方とがさばくのです」(ヨハネ8:16)と言われ、

 「わたしがわたし自身からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことを話している」(ヨハネ8:28)と言われる方なのですね。


 使徒パウロは、
コリントの弟子たちに当てた手紙に書いています。

 「すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが有益とは限りません。
すべてのことは、してもよいのです。
しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

 だれでも、自分の利益を求めないで、
他人の利益を心がけなさい。

 あなたがたは、食べるにも、飲むにも、なにをするにも、
ただ神の栄光を現すためにしなさい」(Ⅰコリント10:23~24、31)。


 私たちは、
神が与えていてくださる自由を、
私自身である〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いのために用いるのではなく、
この、〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いは、
「処刑されたもの」、「死んだもの」から出て来た思いであると認めて(計算して)、
エスの前に差し出し、
受け取っていただきながら、

 イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が
私たちの心に置いてくださる、

〔父である神〕の御思いが実現するために用いていくように
していただけるのだそうです。

 天で、〔父である神〕の御思いの中で、
すでになっていることが、
地にもなるように、
祈り求めながら。
今日も。

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)